【04】暴君


 水垢の浮いた水道の蛇口から水滴が垂れ落ちた。

 薄暗いダイニングの椅子に腰を掛けて、松岡芳光から奪った財布の中身を改める。

 その中からキャッシュカードを手に取った、宇野哲平うのてっぺいが言った。

「……暗証番号は?」

 かたわらに立っていた西嶋里佳にしじまりかは背筋を震わせる。

「まだ……聞いてません」

「おめぇ、使えねえなあッ!!」

 宇野は椅子から飛び降り、床に足をつける。西嶋の前に立って、その顔を見あげた。

「早く金を引き出してこいよ、クソがッ!!」

 宇野は西嶋の交際相手であった。

 もともと、彼は何かにつけて、西嶋や娘の麻鈴まりんに暴力を振るってはいたが、あの事・・・があってから、その狂暴性はいっそう増した。

 やはり、もう人ではなくなったという事なのだろうか。西嶋にはよく解らなかった。

 ともあれ、彼の怒りが静まるまで、いつも助けてくれない役立たずの神様に祈るしか、彼女に残された道はなかった。

「……おい、お前、膝を突け」

「はい?」

「良いから、膝を突け!!」

「はい!!」

 西嶋は軍隊のような返事をして言われた通りにした。

 すると、宇野は唇をにやりと歪めた。

「これは指導だッ!!」

 西嶋の鼻先に右拳がめり込む。彼女は短い悲鳴をあげて仰け反り、冷たく湿気った床に転がる。

 悶えながら鼻を両手で抑えていると、その指の間から鼻血が溢れる。

 耐えがたい苦痛の中、西嶋は思った。

 娘の麻鈴に、気紛れな彼の暴力の矛先が及ばずに本当によかった……。

「……なあ」

 宇野が西嶋の顔を真上からのぞき見ながら言った。

「お前、玩具を拾ってきたからって、油断していただろ?」

 図星だった。

 玩具がいないと、彼の暴力の矛先は西嶋や麻鈴に向かう。だから、彼の玩具にと松岡芳光をささげる事にしたのだ。

 しかし、そんな西嶋の思惑を宇野は見透かしていたらしい。

「とっとと、聞き出してこいッ!! グズがッ!!」

 そう言って宇野は、包丁のラックから果物ナイフを手に取った。

「や、やめ……」

 やめてと言い終わる前に、その果物ナイフの切っ先が麻鈴の左腕をなぞる。ついさっき、恐れていた行為が意図も容易く行われる。

「痛ッ!! お母さんッ!!」

 娘が甲高い悲鳴をあげるが、すぐに宇野の哄笑こうしょうによって塗り潰された。

「ひゃははははは……ほら! 早くしろ!」

 西嶋はよろよろと立ちあがりながら、心の中で必死に助けを求めた。


 ……もう、この男は自分ではどうにもなりません。何とかしてください。誰かこの男を消してください。


 しかし、その願いを聞き届ける者は、ここにはいなかった。




 鼻血が止まらなかったので、まずは手当てをする事にした。

 恐る恐る宇野に許可を求めると、彼はゲラゲラと笑いながら「鼻血垂らした間抜け面じゃ、しまらねえしな」と了承してくれた。

 西嶋里佳は和室に向かい、箪笥の引き出しから救急箱を取り出す。畳の床にしゃがんで手当てを始める。

 昔からこうだった。

 西嶋がつき合う男は支配的で、必ず彼女に暴力を振るい出す。

 なぜかそうした男ばかりを選んでしまい、なぜかそうした男ばかりが寄ってくる。

 その事は、自覚していた。自分は男を見る目がないのだと……。

 それでも自堕落で浅慮せんりょな彼女は、暴君のような男にすがり続ける以外、生きる術を知らなかった。

 そんな彼女が、このままではいけないと初めて思ったのは、娘の麻鈴が産まれてからしばらくの事だった。

 当時、同居していた麻鈴の父親である夫も、酒に酔っては頻繁に西嶋へ暴力を奮っていた。

 流石に妊娠してからは、そういった事はなくなっていたのだが、あるとき、よく思い出せないぐらい些細な事で殴られた。

 そのとき、西嶋は初めて恐怖した。これまでは自分が殴られて終わりだったから、まだよかった。

 しかし、この暴力の矛先が、まだ幼い娘にいつの日か向くかもしれない。

 何とかしなくてはならない。最悪の事態が起こる前に、何とかしなくてはならない。自分はいくら殴られても構わない。しかし、娘だけは、是が非でも守らねばならない……。

 西嶋は必死に頭を使い考えた。人生で最も頭を働かせた。

 しかし、そうして導き出した答えも、再び男に頼る事だった。

 その相手が宇野哲平である。




 宇野は当時、西嶋の勤務先だった阿久間市の繁華街に軒を構えるスナックの常連客だった。

 西嶋にとって、彼の第一印象は、気さくで紳士的で知的な男といったものだった。

 身長は百八十以上あり小柄な西嶋と並ぶと、まるで親子のようだった。

 西嶋がこれまで付き合ってきた男の誰とも違うタイプで、彼女はすぐにとりことなった。宇野との関係を次第に深めてゆく。

 次第に西嶋は、彼こそが自らの元にやってきた白馬の王子様であると考えるようになっていった。

 ずっと彼女は幼い少女のように夢を見ていたのだ。そういった夢物語の存在が、いつしか目の前に現れてくれる事を……。

 ともあれ、それは宇野と初めて関係を持ったあとの事であった。

 郊外の場末のホテルの一室で西嶋は彼に吐露した。

 夫の暴力に苦しめられている事を。

 別れを切り出したいが、怖くてできない事を。

 すると宇野は西嶋を強く抱き締めながら、耳元で甘くささやいた。


「僕が何とかしてあげるよ。もし、全部、終わったら一緒になろう」


 西嶋は彼の胸の中で泣いた。

 やっと、真実の愛を見つけたのだ。

 やはり彼こそが白馬の王子様だった。

 そして、ようやく、自分の人生に恋愛ドラマのようなハッピーエンドが訪れるのだ……と。


 しかし、これが深い奈落への入り口である事に、愚かな彼女は気がついていなかった。

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