【02】監禁


 松岡芳光まつおかよしみつは目を覚ますと、湿気しけったモルタルの上で寝そべっている事に気がついた。

「……ここは」

 背筋が寒い。頭が重たい。それでもどうにか気力を振り絞り、起きあがる。

 辺りを見渡すと、そこは六畳程度の窓のない部屋だった。

 天井からは裸電球が一つだけぶらさがっており、外へ通じるドアは一つ。

 頑丈そうな扉で、高さ五センチ、幅二十センチ程度ののぞき窓がある。

 下部にはペット用の出入り口のような蓋がついていた。

 松岡は扉へと近づき両手で叩いた。

「おい! おい! 誰か!」

 扉の外は薄暗い。狭く急な登り階段があった。階段の先は見えない。松岡は何となくこの部屋が地下室であろう事を悟る。

「おーい! 何だ、ここは!」

 今は何日の何曜日なのだろう……それすら判然としない事に気がついた松岡はスマホを見ようと、身につけていたジャケットのポケットを漁る。

 しかし……。

「ない」

 財布も車の鍵も何にもない。

 さあ……と、血の気の失せる音が耳元で鳴ったような気がした。

 そこで松岡は思い出す。

あの女だ・・・・……」


 “リカ”


 そう名乗っていた。

 半月ほど前にSNSで知り合った。援助を求めていたので“ホ別二万”で会う事にした。

 プロフィールやDMで送られてきた写真を見る限り、外見はまだ二十代前半といった感じで若々しく見えた。何より胸が大きかった。

 既婚者で八歳の娘がいるらしい。旦那がコロナ禍の影響で失業し、生活が苦しいとの事だった。

 何度かメッセージのやりとりを繰り返し、どこかで会う運びとなった。

 そこで向こうが指定してきたのが、県南の阿久間市である。

 合流したあとは一台の車に乗り込み、適当にドライブデートを楽しんだあと、ホテルでの時間を過ごす……という予定になっていた。

 因みに阿久間は松岡の生活圏からはかなり遠い。

 しかし彼は既婚者なので、知り合いと顔を合わせる不運に見舞われる確率は低い方がよい。

 特に反対する事もなく、阿久間郊外のパチンコ屋の駐車場で会う事を了承した。

 そして当日、二〇二〇年六月十九日の金曜日であった。妻には急な出張であると嘘を吐いて昼から家を出た。

 ここ最近はずっと家でリモートワークばかりだったため、急に出張などと言い出した松岡を妻はずいぶんといぶかしんだが強引に押し通した。

 妻は世間知らずな上に、でかい声を出せば自分に従う事を松岡はよく熟知していたので、今回もその手管を用いた。

 ……ともあれ、パチンコ屋の駐車場でリカと顔を合わせた松岡は、大きく落胆する。

 なぜならSNS上の写真では、若々しいと思っていたリカだったが、実物は自分と同じ三十代半ばのように思えたからだ。

 冷静に考えれば、八歳の娘がいるのに二十代前半などという事はあり得ない。

 だがコロナ禍により、なかなか発散できなかった彼の性欲が、その思考を鈍らせていた。

 実物のリカはたいそう草臥くたびれており、無理やり化粧で誤魔化している感じが見え見えであった。

 しかし、彼女の胸部だけは彼の眼鏡に叶った大きさだったので妥協する事にした。

 話し合いの結果、どうも彼女は酒を飲まないらしく、この辺りに土地勘もあるとの事だったので運転役を任せる事にした。

 リカの車に乗り込み駐車場を発つ。

 すると、早々に彼女の方から「早くホテルに行きたい」などとせがんできた。

 ずいぶんとスケベな女だ。これは当たりを引いたかもしれない……松岡はほくそ笑み了承した。

 それからよからぬ想像を巡らせ、ドリンクホルダーに差してあった缶珈琲を手に取った後から記憶がない――。




「ああ、畜生、やられた……」

 松岡は自らの置かれた現状に頭を抱えた。

 扉ののぞき窓の外に向かって叫ぶ。

「おいっ! 財布の中の金はやるっ! 警察には言わないっ! 帰してくれっ!」

 物音一つ聞こえない。

 松岡は諦めずに叫び散らす。

「おいっ! いくら欲しいんだ!? 百万ぐらいなら妻に内緒で何とかなるぞ!」

 返事はない。

「おいっ! おいっ! 頼むっ!」

 返事はない。

「おいっ!! おいっ!! おいっ!! 畜生!! 出せ!! 出せよっ!!」

 返事はない。

「ちっくしょぉお……」

 松岡は泣きながら、その場で腰を落として項垂うなだれた。

 すべてが終わりだ。松岡は絶望するあまり嘔吐えずき始めた。

 もし、このまま家に帰れなかった場合、妻が警察に届け出て自分を探すだろう。そうして首尾よく救出されたとしても、不倫していた事が露見する確率は高い。

 そもそも、そんな事態で済めば上々で、このままでは殺されてしまうかもしれない。

 何にしろ人生は終わりである。

「畜生……何で、こんな……」

 松岡には、相手の目的は金ぐらいしか思いつかなかった。

 ただ一つ、わざわざ誘拐して監禁するという労力をかけているのだから、それ相応の対価をあの女が得ようとしているであろう事は推測できた。

 身代金目的……それとも、臓器でも売って金にするつもりだろうか……松岡は次々と頭に浮かぶ不穏な想像に押し潰されそうになる。

 そのときだった。

 扉の外から足音が聞こえた。

 誰かが階段をくだってくる。

 松岡は勢いよく立ちあがると、扉の覗き窓に顔をへばりつかせた。

 すると、外に小さな女の子が立っていた。

 小学一年生か二年生ぐらい……ちょうど松岡の息子と同じ年頃だった。

 色白であったが頬はふっくらとしており、リカと違って血色がいい。

 レースに彩られた半袖のワンピースを身にまとっていた。

 そこで松岡はリカには八歳の娘がいた事を思い出す。

「……あの、お嬢ちゃん。お名前は……」

 少女は答えない。

 瞬きを繰り返し、じっと扉の覗き窓を見あげている。

「ここ、開けてくれないかなぁ?」

 優しく語りかけるが、やはり返事はない。

「ねえ……お嬢ちゃん」

 そこで松岡は、はたと気がつく。

 少女の両腕に刻まれたおびただしい、切り傷の痕や青痣あおあざを……。

「お嬢ちゃん……その腕……」

 そう言った瞬間に、少女はくるりと踵を返して、逃げ去るように再び階段の上へと姿を消した。

 松岡は大きな溜め息を吐いて床に座り直した。

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