【09】ラストバトル


 桜井梨沙が悠々とした歩調で白い影にしか見えない東藤綾に歩み寄る。

 その背後では、戦地へおもむく主人公を見送るヒロインのような顔の茅野循の姿があった。

 東藤もまた桜井に向かって歩き始める。

 一歩、また一歩……間合いは縮まり二人の暴風圏が重なり合う。

「いくよ?」

 それが戦闘再開の合図だった。桜井の右の正拳突きが繰り出される。

 その一撃をかわして東藤は踏み込む。右の掌打で桜井のあごを突きあげようとした。しかし、仰け反ってかわされる。

 獣の微笑を浮かべる二人。

 そこから打撃の応酬となった。

 東藤はときおり前蹴りで距離を取りながら掌打や手刀で攻めるスタイルだった。

 巧みに桜井の突きや蹴りを叩き落としながら隙をうかがい、攻撃に転じる。

 もちろん桜井も負けていない。

 打撃技の応酬を堪能するかのように突きや蹴りを繰り出し、東藤を圧倒しようとする。

 二人の実力は五分と五分。いずれの攻撃も決定打には至らない。

 徐々にヒートアップする二人の攻防を目の当たりにし、茅野は唖然とした表情で呟く。

「あの白い影……柔道だけじゃない……」

 東藤の打撃技は古流柔術のものだった。現代柔道の原型となった格闘術である。

 元々甲冑での組討ちを想定して発展してきた技術であるため、鎧越しでも効果の高い間接技や投げ技が主体となっている。

 ただし、流派によっては掌打や手刀などを牽制や防御に用いる。

 東藤は柔道を極めるなら、その源流である古流柔術も学ばなければならないと思い込んでいた時期があった。

 彼女の打撃技術は、そのときに視聴した通信講座の動画から学んだものである。

 一方の桜井の空手も“閑だから”という理由で、小学五年生の頃に通信講座から学んだ技術だった。

「古流か。やるねえ……」

 桜井の瞳がアドレナリンに染まる。突きや蹴りの回転速度がよりいっそう速くなる。

 それらを次々とさばき、間合いを詰めて有効打を狙う東藤。

 しばらくの間、通信講座をバックグラウンドに持つ者同士による一進一退の攻防が続く。

 しかしこの攻防は、お互いがもっとも得意とする柔道という領域への呼び水でしかなかった。

 打撃で隙を作り、自らが少しでも有利な形で柔道へと持ち込む。

 きっと、次に組み合ったときがこの戦いの最終局面になるであろう……両者の考えている事は同じだった。

 そして、ついにその瞬間が訪れる。

 突きを放ち真っ直ぐ伸びた桜井の右腕に、東藤の左腕が蛇のように絡みつく。

 そこから更に東藤は右手で襟を取ろうとするが、これは叩き落とされる。

 構わず反転し、桜井の右腕を両手で抱え込むようにしながら背負い投げる。

 桜井は即座に右腕を切り、東藤の背中に乗っかって彼女の首に左腕を回す。裸絞めで落とそうというのだ。

 しかし、完全に技が入る前に東藤が喉元の左腕を取り、まるで上着を脱ぎ捨てるかのように前方へ投げる。

 桜井は猫のように空中で身体を捻り、しなやかな着地を見せる。

 そこで二人はがっぷりと組み合う。

「やっぱり、これで決めようよ。お互いの得意技でさあ」

 にぃ……と笑う桜井。

 激しい戦いの終わりは、刻一刻と近づいていた。




「やっぱり、これで決めようよ。お互いの得意技でさあ」

 その言葉に東藤は頬を赤く染めてはにかむ。

「何か……あの頃を思い出すわね」

 しかし、その声は桜井梨沙には届いていない。

 刹那、東藤は前方に重心を崩される。前に出た右足を桜井の右足が刈り取ろうと動き始める。

 電光石火の小内刈こうちがりが来る。

 東藤の身体は自然に反応していた。

 重心を戻して前に出た右足を引く。

 桜井の右足を、すかさず東藤が左足で刈りにいった。

 小内刈をすかしてからの小外刈。

 あの全国中学校柔道大会の決勝で桜井から技ありをもぎ取ったときの流れとまったく同じである。

 ここからでは、さしもの桜井梨沙でもかわす事はできないだろう。

 東藤は勝利を確信した。

 しかし次の瞬間、不思議な事が起こった。 


「えっ……」


 東藤は自分の身体が勝手に右方向へと傾いでいくのを感じた。

 桜井の右足は出ていなかった。絶妙なフェイントであった。

 桜井は片膝が地面につくぐらい脚を折り曲げながら、釣り手と引き手を東藤から見た右方向に傾けている。まるで両手で持ったバケツの水を地面にぶちまけるかのような格好である。

 たったのそれだけであったが、東藤の身体は右側へ引っ張られる。

 やがて両足が大地から離れて宙を舞った。

 桜井の背後で試合の一部始終を見ていた黒髪の少女が大きく目を見開き、その言葉を発した。

 そこで東藤は、ようやく自分が何をされたのかを悟った。


 “隅落すみおとし


 それは講堂館の達人、三船久蔵みふねきゅうぞうが編み出した伝説の技。

 通常、柔道の立ち技は相手と組んだ両手に加え、足か腰の三点を使って投げる。

 しかし、この技は相手の胴着に触れている両手の二点だけで投げるのだ。

 一見すると複雑な動作はいっさいないが、絶妙なタイミングと素早さで行われる重心の崩しと体さばきが肝となる神業である。

 まるで相手が勝手に飛んで転んでいるようにも見える事から“空気投げ”とも呼ばれる。

 東藤の身体が湿った地面に叩きつけられた。

 桜井が東藤の頭上で右足を振りあげる。


「楽しかったよ。ばいばい」


 その心の底からの感謝と別れの言葉。

 振りおろされるとどめの一撃。


 ……まだだ。この右足を受けとめて足搦みヒールホールドを……。


 東藤はまだやるつもりだった。

 しかし、桜井の右足が踏みしめたのは、湿った地面だった。

 白い影は何時の間にか消えていた。最初からそこに存在していなかったかのように……。

 そして、襟を掴んだときにもぎ取った奇妙な首飾りだけが、桜井の右手の中に残されていた。




 目を覚ますと、真上に白い天井と輝く蛍光灯があった。

「桜井梨沙!」

 上半身を起こそうとすると、ベッド脇にいた看護士に止められる。

「ちょっと……まだ、駄目よ。頭を打ったんだから安静にして……」

 東藤は辺りを見渡して看護士の顔を見あげる。

「ここは?」

「病院よ」

 その端的な言葉に東藤は混乱する。

 頭に違和感があり、触れてみると包帯が巻かれていた。

「何で? 私、確かバスで青梅に……」

「そのバスがガードレールを突き破って転落したのよ。斜面の途中の変な場所で引っ掛かって、救助が凄く大変だったらしいけど」

 その言葉を聞き終わらないうちに、東藤は世界が終わってしまったかのような顔で叫ぶ。

「莉緒は! 莉緒!」

 ベッドから飛び出そうとする彼女の肩を看護士は押さえつけて苦笑する。

「大丈夫よ。右足折っちゃったけど、あの子、元気だから。だから、落ち着いて」

 その言葉を聞いた瞬間、悪鬼羅刹あっきらせつのごとき戦い振りを見せた少女の瞳に涙がにじむ。

「ああ……そう。よかった……」

 心の底から安堵した様子で微笑むと、東藤綾はその身をベッドに横たえ目を瞑った。

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