【08】甦る記憶


 桜井と茅野の目には徳澤祐司の存在は見えていなかった。

 ゆえに白い影が急に真横へと吹っ飛んで勝手に窓から落ちたように見えた。

 二人はその壊れた窓辺に寄る。

 白い影の姿はすでにどこにも見当たらない。眼下には、ただ湿った草むらが広がるばかりであった。

「梨沙さん、あれ、いったい何なのよ?」

「さあ……?」

 肩をすくめる桜井。そして依然として困惑気味の相棒の横顔を見あげる。

「……ただ、あの白い影、柔道経験者だよ」

 桜井はその事実を告げたあと、茅野循にとって、まったく信じがたい見解を淡々と述べる。

あの白い影・・・・・柔道だけなら・・・・・・あたしより・・・・・上手いかも・・・・・

「梨沙さん、それは本当なの?」

 茅野は唇を戦慄わななかせ相棒の顔を見た。

 桜井が至極真面目な表情で頷く。

 “彼女より柔道が上手い”

 それがどれほどの意味を持つのか、茅野循はよく知っていた。

「梨沙さん、私、初めて心霊スポットが恐ろしい場所だと感じられたわ……」

 そう言って再び目線を外に移した。

「あたしも、何か怖くなってきちゃった……」

 珍しく青ざめた表情の二人であった。

「そもそも、物理的に触れる事のできるというのがおかしな話ね。あれは本当に幽霊なのかしら?」

 茅野はいぶかしげに首を傾げる。

「取り合えず、白いもやもやに見えるけど服は着てるっぽい。何かナイロンぽいつやつやのやつで、たぶんジャージかな? それから、目潰しサミングに対しての反応を見るに目もあるっぽい」

「ますます、訳が解らないわね……」

 あごに指を当てて思案顔を浮かべる茅野。

「何にしろ、やべーやつだよ」

「あのトレーニンググッズの持ち主かしら?」

 この茅野の発した問いに、桜井は確信を持って頷く。

「間違いないよ。こんな山奥にやべーやつが何人もほいほいいたら、ちょっと洒落にならない。同じだと考えた方が自然かな……」

「人かどうかは限りなく疑わしいけれど……」

 そこで桜井が窓の外から目を離して言う。

「取り合えず下に降りて、あの白い影を探そう」

「ええ。そうね」

 二人は一階へ降りて玄関へと急いだ。




 またあの血塗れの女の顔がのぞいている。

 まったく記憶にない顔だ。

 その女の顔の向こうに通路を挟んだ座席と窓が見えた。

 その窓からは光が射し込んでいた。

 遠くで人の声が聞こえた。

 誰かが何かを叫んでいる。

 話し声や物音が遠退き、視界が暗闇に包まれる。

 東藤綾は目を開いた。

 すると、いつの間にか玄関ポーチの前に立っており、あの小男――徳澤がすぐ目の前で自分の顔を覗き込んでいる事に気がついた。

 その右手が首元のネックレスに伸びようとしていた。

「きゃっ!」

 短い悲鳴をあげ、その右手を払う。

 彼の方も……。

「ひぃっ!」

 と、悲鳴をあげて、東藤から距離を取る。

 その顔を見て彼女はおかしな事に気がつく。

「あれ? あなた、その左目……」

 確かに硝子片で貫いたはずだった。しかし、何ともなっていない。恐怖の色に濡れた眼球がそこには確かにあった。

 その瞳を見て東藤綾は得心する。

ああ・・これは夢か・・・・・忘れてた・・・・

 そう言って、脅えながら後退りする徳澤にゆっくりと歩み寄りながら獰猛な笑みを浮かべる。

なら・・何をやっても・・・・・・死なない・・・・んだよね・・・・!?」

「いや……あの……その……」

 後退りしながらもごもごと口を動かしていた徳澤は、地面に転がった木の枝に足を取られ尻餅をつく。

 東藤は彼の胸元を持ちあげて無理やり立たせた。

「やめ……やめて……やめてください」

「よくも邪魔をしてくれたわねッ!」

「ひぃいいいい……!」

 胸元を捻りあげられ、情けない悲鳴をあげる徳澤の左頬に憤怒をまとった右拳が着弾する。

 その瞬間、彼の視界が揺れ、忘れていた記憶が電流のように意識の中を走り抜ける――




 それは川崎の独身寮の六畳間であった。

 室内には桜の代紋入りの作業着姿の男たちが動き回っていた。

 不意にまばゆいストロボが焚かれる。

 その光に浮かびあがったのは、せんべい布団の上に横たわる自らの姿であった。

 静かに眠っている。

 まるで死んでいるかのように……。

 背広姿の男がビニール袋の中の薬瓶を右手に持って眺めている。それを近くの作業着姿の男に渡した――




「ああああ……俺は、俺は……」

 徳澤祐司はようやく思い出した。


 自分がとうの・・・・・・昔に死んで・・・・・いた事を・・・・……。


 そして、東藤の怒声が彼の意識を記憶の彼方より呼び戻す。

「二度と私たちの邪魔をするんじゃない!」

 ガタガタと掴まれた胸ぐらを揺すられる。

 もう一発殴られた。

 とどめは切れ味の鋭い払腰はらいごしで地面に叩きつけられる。

「ああああぁ……」

 その瞬間だった。

 徳澤の身体が白く輝き破裂した水風船のように弾けて消えた。

 彼の霊体は自らの死を認識した事によるショックでもろくなっていた事にくわえ、更に東藤の技により粉々に砕け散ったのだ。

 そうとは知らない東藤は、溜め息を一つ。

「ふう……流石は夢ね」

 そう言って、右手の甲で額をぬぐう。

 すると玄関ポーチから、桜井梨沙と茅野循が姿を現す。

「きたわね……桜井梨沙」

 落下したのが、柔らかい土の上の草むらだった事もあり、さっきのダメージはほとんどない。

 東藤は身構えて、桜井梨沙と向き合う。


 ……今、最後の戦いが始まろうとしていた。

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