【03】六月七日の朝
土手の下の湿地で白い
小川のせせらぎの向こうから
六月七日の早朝、桜井梨沙と茅野循は県央に位置する
もちろん、トレッキングなどではなく心霊スポット探訪である。
「……あと少しで、
少し汗ばんだ頬を上気させ茅野が言った。
そんな相棒の横顔を見あげるのは、桜井梨沙である。
「そこにあるんだね。今回のスポットが」
「そうね」
小浦谷はかつて林業が盛んであったが、昭和六十年代の半ば頃に無人となり、そのまま廃虚となったのだという。
「……んで、どんなスポットなの?」
「その小浦谷の外れにある館なんだけど、ズバリ、そこでは密室殺人が起こったらしいのよ」
「密室殺人!?」
さしもの桜井も目を白黒させて驚く。
「事件があったのは、女流作家の横井圭子の家ね」
「有名な人なの?」
桜井の問いに頷く茅野。
「一九六〇年に処女作“黒雪”を
「ふうん」と、相変わらず、ぼんやりとした返事をする桜井と、気にした様子もなく話を続ける茅野だった。
「横井の嫁ぎ先は、戦後から高度経済成長期に林業で財を成した地主だったらしいわ。未だに犯人は捕まってなくて、未解決事件として有名ね」
「今回は、その真相を暴こうというんだね? どんな事件なの?」
その問いに茅野循は、待ってましたとばかりに得意気な顔で語り始めようとするが……。
「いや、やっぱりちょっと待って」
桜井梨沙が急に声をあげた。
出鼻を挫かれた茅野は苦笑する。
「どうしたのよ?」
すると、桜井が鹿爪らしい顔で
「だいたい、わかった」
当然、首を傾げる茅野。
「何がよ?」
「密室殺人の真相だよ」
ちっちっち……と、舌を鳴らして、桜井は右手の人差し指を振った。
「いや、梨沙さん、まだ事件の事を何も話してないわ」
茅野の指摘に首を横に振る桜井だった。
「もなみ、真相は明白なのだよ、ワトソンくん」
「何か混ざってるみたいだけど、じゃあ、その真相を話してごらんなさい、名探偵さん」
おほん、と咳払いを一つして桜井が語る。
「犯人は幽霊。犯行方法は壁をすり抜けてやった。動機は知らん。
……沈黙。
「……いや。だって密室って、鍵のかかった部屋って事だよね?」
先に口を開いたのは桜井だった。
「まあ、狭義ではそうね。人の出入りが不可能に
「だったら、その中にいる人を殺すなんて人間には不可能だよね? 幽霊ならいけるけど」
さも当然のように言い放つ桜井に茅野は苦笑する。
確かに普通ならば、幽霊が犯人などと言い出せば、そんな馬鹿な……となるだろう。
しかし、桜井と茅野はこれまでの経験から、密室に出入りをして人を死に至らしめる事のできるモノが、この世に存在すると知っている。
「確かに、
「でしょー?」
と、桜井は得意気な顔をする。
確かに、ある意味でそれは真理だ……素直にそう思う茅野であった。
「……ところで梨沙さん」
「ん?」
「Q.E.D.の意味はご存じかしら?」
不意打ち気味の質問に、腕組みをして思案顔を浮かべたのち、桜井は答える。
「クイーン、エリザベス、デヴィッド・ボウイ?」
「梨沙さん、 Q.E.D.が口癖の名探偵はイギリスじゃなくてアメリカ出身よ 」
「へえ、そーなんだ」
……などと、知能指数の低そうな会話を交わしながら、二人は山道を先へ先へと進む。
そして、小浦谷集落跡へと辿り着いた。
同じ頃だった。
東藤綾と佐島莉緒を乗せたバスは県境を越えて青梅市へと到着した。
右手の車窓には山肌が、左手にはガードレールが沿っており、急斜面が谷底に向けてくだっている。
車内は閑散としており、二人の座席から運転手の背中がよく見えた。
「フリスク、食べる?」
佐島が窓際の東藤に向かって、フリスクを差し出した。
東藤は「うん」と頷き、右手を持ちあげようとするが……。
その動きがぎこちない事に気がつき、佐島は呆れる。
どうやら手首に重りを巻いているようだ。しかも、かなり非常識な重量の……。
「ねえ、アヤちゃんさぁ、孫悟空とかじゃないんだからさぁ」
「いいえ。桜井梨沙を倒すためには、これぐらいの事……」
佐島はようやく持ちあがった東藤の右掌にフリスクを落とすと唇を尖らせる。
「山道、危ないから重り外しなよ?」
「うん。そうね。正直、これは無茶だったわ。向こうに着いたら外す」
残念そうな東藤。そして、当然のごとくつけ加える。
「でも桜井梨沙なら、これぐらい余裕だと思うけど」
「はいはい……」
佐島の知っている彼女は昔からこうだった。
いっけんすると小柄で可愛らしいお嬢様といった風貌にも関わらず、野生動物を思わせる凄まじい身体能力を持ち、やる事なす事、突拍子もない。
おまけに正義感が強く、曲がった事が大嫌いな癖に、リミッターが外れると暴力にまったく
何事にも無頓着な癖に、一度何かにハマり始めると寝食を忘れるほどにのめり込む。
ようするに、馬鹿なのである。
佐島と東藤の親は仲が良く、自然な成り行きで彼女たちも一緒にいるようになっていた。
いつも東藤が突拍子もない事をしでかして、そのフォローに佐島が
完全な腐れ縁であったが、そんな関係も悪くないと佐島は思っていた。
近頃は女子柔道界のホープとして、忙しい毎日を送る東藤との時間はめっきりと減ったが、たまの余暇には、こうして自ら彼女の世話を焼きにきてしまう。
そんな自分も彼女と同じくらい馬鹿なのだろうと、佐島莉緒は心の中で自嘲した。
すると……。
「莉緒、笑ってる。どうしたの?」
はっとして、佐島は東藤の方を向いて弁明する。
「何でも。思い出し笑い」
「ふうん。ならいいけど」
その釈然としない様子の東藤の言葉を聞き流し、佐島は再び前方を向いた。
するとその瞬間、路面の凹凸でバスが大きく突きあげられ、同時に運転手の首が秋田のあかべこのように大きく揺れた。
もうすぐ、目的の停留所へと到着する――
「は?」
東藤綾は自分が見知らぬ場所に立っている事に気がついた。
「私、莉緒とバスに乗っていたはずじゃあ……」
周囲を見渡す。
板張りの床に落ち葉や硝子片が散らばっている。
木枠だけになった窓の向こうには、
どうやら、どこかの廃屋の玄関ホールのようだった。
「ここ、どこ……?」
東藤はきょとんとした表情で首を傾げた。
すると、唐突に誰かの話し声が耳をついた。
その声が聞こえた方へ視線を向けると……。
「ん……?」
玄関ホール奥の二階への階段を登る二人の人影が目に映る。
一人は背の高い黒髪の少女、もう一人は栗色の髪を後頭部で結った小柄な少女だった。
二人は何事かを話しながら、踊り場から右側へ折れた階段を登り始めた。
そのとき、小柄な少女の横顔を目にした東藤は大きく目を見開いた。
「桜井……梨沙……」
その固有名詞を言い終わる前に駆け出そうとする。
しかし、突然右腕を掴まれて前方につんのめった。
「ちょっ……何なの!」
右腕を大きく振り乱し、東藤は振り返った。
すると、そこには……。
「その首飾り……返せ……」
見知らぬ男が凄まじい形相で彼女を睨みつけていた。
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