【02】マニア


 二〇二〇年六月一日埼玉県某所にて。

 自らが暴漢を投げ飛ばす様をスマホ画面で眺めながら、東藤綾は渋い表情で顔をしかめた。

 山嵐……それこそ、今でも忘れられない二〇一六年全国中学校柔道大会での決勝にて、彼女が試合終了寸前に桜井梨沙から喰らった最後の技であった。

 それを久々に登校した学校の休み時間に、自らの席で何度も見返していた。

 そのしかめっ面をのぞき込むのは、前方の席の椅子に後ろ向きで座る快活そうな少女だった。

「アヤちゃん、また自分の動画、見てるの?」

 彼女の名前は佐島莉緒さじまりお

 東藤綾と同じく、この聖バレリ女子学院の生徒である。東藤とは無二の親友であった。

 その佐島の質問に対して、東藤は画面から目を逸らさぬまま答える。

「うん。もう閑さえあれば。百回は繰り返し見てるかも……」

「ひょっとして、ナルシスト?」

「いや」と首を横に振る東藤。

 今度は佐島の方へ顔を向ける。

「……腰のキレがまだまだ甘いなって、思って」

「そこなの!?」

桜井梨沙は・・・・・こんなもの・・・・・じゃなかった・・・・・・

 そう言って、再びスマホ画面に目線を落とし、何度も自分の技のフォームを確認しだす。

 佐島は、また桜井梨沙だよ……と、呆れ顔で肩をすくめた。




 東藤を“無敵の女王”などと呼ぶ者もいるが、本人からしてみれば、それは大きな勘違いでしかなかった。

 彼女の中での真の無敵の女王は、未だに桜井梨沙であったからだ。

 東藤が桜井梨沙の存在を初めて知ったのは、二〇一五年の全国中学校柔道大会での事だった。

 この頃の東藤は、たぐいまれな才能を持ちながらも“それなりに強い選手”といったレベルだった。

 そもそも柔道を始めたのも、憂さ晴らしで人をぶん投げたり、絞めて落としたりできるなら何でもよいという、極めて粗暴な動機からで、そこまで真面目に練習をしてこなかった。

 現に彼女の一年生のときの戦績は県大会止まりである。

 そんな彼女であったが、先輩の応援で訪れた全国大会の会場で大きな衝撃を受ける事となった。

 桜井梨沙である。

 鬼神のような力強さ。

 ときには、一撃で切って落とす日本刀の如き技の鋭さ。

 それでいて、いつも寝起きなのかと見まごう薄ぼんやりとした顔をしていた。

 まるで中心だけがいでいる台風を思わせる。

 そんな桜井梨沙に東藤綾は一瞬で魅入られた。


 ……私もあの子と戦いたい。


 多くの選手が桜井梨沙のあまりの強さにドン引きする中で、東藤綾はその胸の奥に熱い血潮をたぎらせる。

 何の事はない・・・・・・彼女もまた・・・・・桜井梨沙と・・・・・同種の人間で・・・・・・あったのだ・・・・・

 このときを境に東藤綾は戦闘者として覚醒し、これまで以上に練習へと励むようになった。

 そして中学二年の全国大会の決勝。

 試合開始から終了までの三分間は、彼女にとって特別な時間であった。

 ワンミスが死に繋がるという、ひりつく緊張感。

 あの桜井梨沙と自分が渡りあえているという充実感。

 彼女と出逢った日より、およそ一年間、この時の事だけしか考えていなかった。

 何度も桜井梨沙の試合動画を見返して、その癖や技の切れ味を頭に叩き込む。

 そして、多彩な攻撃の中でも比較的使用頻度の高い小内刈こうちがり出足払であしばらいに絞って、返し技の練習を積んだ。

 トレーニング法を見直し、基礎体力と筋力の向上にも励んだ。

 あまりにも桜井梨沙の事しか考えていなかったため、決勝にいくまでの東藤の試合内容は誉められたものではなく、すべてが辛勝であったのはご愛嬌である。

 そのためか決勝まで誰も彼女の真の実力に気がつく事はなかった。あのすべてを見通す慧眼けいがんを持った茅野循でさえ……。

 そんな経緯で一年間の努力の成果を技ありという形に結実させ、勝利をあと一歩のところまで手繰り寄せはしたのだが、結果は惜敗せきはい

 己の慢心と未熟さを恥じると同時に、東藤は桜井梨沙との再戦に意欲を燃やした。

 しかし翌年の春先だった。

 桜井梨沙が選手生命に関わる大怪我を負う。

 その一報を耳にした東藤は大きく落胆した。

 彼女の親友である佐島によれば、この当時の東藤は、まるで脳みそが腐れたゾンビのような有り様であったのだという。

 そんな危険な状態が一週間ほど続き、東藤は切り替える。

 やわらの道を真っ直ぐ突き進めば、いずれ桜井梨沙ともう一度、戦える。あれほどの才能がこのまま終わる訳がない。柔道を続けていれば、またいつか死合しあえるのだと……。

 だが中学を卒業し、高校生になっても、彼女の耳に桜井梨沙の名前は聞こえてこなかった。

 インターネットで彼女の名前を検索しても、出てくるのは怪我をする以前の記事ばかりだった。

 桜井はSNSをやっていないために、現在どうしているか解らない。

 東藤には、まるで桜井がこの世界から消えてしまったように感じられた。

「桜井梨沙もこの動画、見てくれたかしら? 私の事を覚えていてくれているかしら?」

「いや、覚えているでしょ、そりゃ」

 佐島は呆れ返る。

 スマホの画面に目線を落とす東藤の表情はまるで恋する乙女のそれである。

「……ああ。桜井梨沙をぶん投げたい……絞め落としたい……手加減なしで本気で死合いたい……」

 しかし言っている事は、かなり物騒であった。

 佐島は「やれやれ」と溜め息を吐く。

「てか、そんなに桜井梨沙の事が気になるなら、会いにいけばいいじゃん。藤見女子だっけ? まあ今はコロナが怖いけどさ」

 すると、東藤は両手で顔を覆い、イヤイヤと首を振った。

「やだ。そんなの……恥ずかしい……」

「絶対、アヤちゃん、彼氏出来たら面倒臭いよね……」

 佐島は再び盛大な溜め息を吐く。

「ねえ、もう昔の女の事なんて忘れて、今を生きようよ」

「いや、私は桜井梨沙を追い求める! 桜井梨沙との戦いを追求する! もう柔道なんてどうでもいい! 私が歩む道は・・・・・・桜井梨沙道よ・・・・・・!」

「今の台詞、日本代表監督に聞かせてやりたいわ……」

 東藤といえば、今やメダルを期待される女子柔道界のホープである。

 その彼女が“柔道なんてどうでもいい”と言い切ったのだ。

 因みに周囲のクラスメイトたちの耳にも今の言葉は届いていたが「またか……」と、誰も驚いていなかった。

 これ以上、桜井梨沙の話を続けると“いかに桜井梨沙が凄いか”を早口で熱弁し始めるのがいつものパターンであったため、佐島は話題を変える事にする。

「それでさぁ。今度の日曜日だけど……」

「ああ、うん。いいよ。大丈夫」

 と、東藤は頷く。

「練習もまだ始まらないし、トレーニングになりそうだし」

 佐島は今週の日曜日、青梅おうめの南部へとトレッキングへ出かけようと東藤を誘っていたのだ。 

 了承の返事を受けて、佐島の顔が、ぱっと明るくなる。

「そう。なら、お弁当、作ってくるね。何かリクエストある?」

「茹でたササミとブロッコリー。あとバナナ味のプロテインと炭水化物」

「ああ、うん……」

 死んだ目で頷く佐島は、ふと東藤の首にかけられた金色の鎖に気がつく。

「アヤちゃん、それ……首の」

「ん?」

 東藤がその鎖の先にぶらさがったペンダントヘッドを引きあげる。

 親指の先くらいの小さなコイン。そこには見た事のない文字がびっしりと刻まれていた。表面は黒錆くろさびに覆われ随分と汚れている。

「それ、前にいった占いショップで買ったやつ?」

 佐島の質問に対してかぶりを振り否定する東藤。

「これ、この前、ネットオークションで落としたの。二千円」

 東藤はアンティークの小物やレトロな古着に目がない。

「安っ! いや、何か呪われそうな感じだけど」

 佐島が眉をひそめると、東藤は笑う。

「まさか!」


 ……そのまさかである事に彼女は気がついていなかった。

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