【01】妄執


 一九六五年の秋であった。

 それは東京都渋谷にある雑居ビル地下の、うらぶれたバーでの事。

 適度に店内は広く暗く、テーブル席の間には高い衝立がある。日曜日の夜だけあって、その日は客足もそれほど多くはなく、密談には最適だった。

 そんな中、店内を漂うビートルズのピアノカバーの向こう側で、その言葉を血を吐くような顔で口にしたのは三十代半ばの男であった。

「桂子を殺したい……」

 彼の名前は徳澤祐司とくざわゆうじ。小男でいかにも卑屈そうな顔をしている。

 その彼とテーブルを挟んで対面しているのは、とうてい堅気とは思えない厳つい風貌の男だった。

 名前を遠藤滝治えんどうたきじという。

「……呪いってえのはよ、必ず対価を支払わなきゃならねえんです。それを払うのは、俺じゃねえ。旦那の方だ」

 そう言って遠藤は、両切りのピースを唇に挟み、紙マッチをすった。

 彼は山谷で棒頭ぼうがしらを営むかたわら、裏ではまじないを生業とする呪術師である。

 徳澤は建設業に携わっており、その関係で彼と知り合った。

「昔、酒の席でのくだらねえいざこざで、揉めた輩を殺したいってんで、俺に大金を積んだ野郎がいた。俺はそいつに言われた通り、全部お膳立てしてやりましたよ。もちろん上手くいった。……でもね、旦那」

 遠藤は唇をすぼめて、天井に向かって白煙を吹き出す。

「その野郎、どうなったか解ります?」

 徳澤はごくりと唾を飲み込んだ。

 遠藤が分厚い唇を歪めて醜怪しゅうかいに笑う。

「右手の中指と薬指の先っぽをなくしたんでさぁ」

 徳澤が「ひっ」とかすれた悲鳴を漏らす。

 その顔を見て遠藤は鼻を鳴らす。

「俺が言いたいのは、その桂子とかいう女の死が、旦那にとってどれほどのものなのかっていう事なんですよ。対価を払ってまで、殺す価値があるのかよく考えてください」

 そこで、徳澤は一気にロックグラスを煽り、天板に向かって振りおろす。

 しゃりん……と、氷が音を立てた。

「やっぱり、俺は横井桂子よこいけいこを殺したいぃ……」

 徳澤が横井桂子と出逢ったのは、彼がまだ学生で東京の高円寺に下宿していたときの事だった。

 彼女とは同じ大学の出身で共通の友人を介して知り合う。

 当時の横井は、将来的に文筆で身を立てたいと願う文学女子であった。そんな彼女に、徳澤は一目で心を奪われてしまった。

 しかし、容姿に自信がなく奥手な徳澤には、その想いを打ち明ける事などできなかった。

 そのまま何の進展もなく、彼は大学を卒業して、さる建築会社の営業職に就いた。

 当然ながら横井とも疎遠になる。しかし、彼女への恋慕の情は、依然として衰えぬままであった。

 一方の横井は校正の仕事や家庭教師などで身を立てながら執筆した処女作“黒雪”で文壇デビューを果たす。

 その美貌から閨秀作家けいしゅうさっかなどと呼ばれるまでになった。

 もう土建屋程度では、手の届かない高値の花となってしまった彼女に徳澤は絶望する。

 おまけに風の噂で聞いたところによると、横井は近々郷里の名士と結婚するのだという。

 次第に徳澤は、彼女への恋慕の情をどす黒い殺意へとこじらせていった。

「ううっ、圭子が俺以外の男に抱かれるなど許せないぃい……その前に殺してやりたいぃい……」

 空になったロックグラスを握り締め、肩を震わせる徳澤を眺めながら、遠藤はニヤリと笑った。

「何だ。ならば、殺さなくて構わないじゃあねえですか」

「は?」

 徳澤が顔をあげる。

 遠藤は煙を吹き出して、灰皿に灰を落とした。

「モノにできれば、よいのでしょう? 横井圭子を……」

「彼女を俺に惚れさせる事ができるのかっ!」

 前のめりに喰らいつく徳澤に向かって右手をかざす遠藤。

「そんな都合のいい方法は知らねえです……」

「じゃあ、どうやって彼女を……」

 モノにできるというのだ……と、言葉を続けるつもりだった徳澤だが、恥ずかしくなって口をつぐみ、うつむいてしまう。

 そんな彼の様子を見て、遠藤はやれやれと肩をすくめた。

「だから、無理矢理モノにするんですよ」

「む、無理矢理……」

 ごくり、と生唾を飲み込む徳澤。

「だが、そんな事をしたら、俺は犯罪者だ……」

「大丈夫です。この方法を使えば旦那だと知られる事なく、彼女を何度でも好きなときにモノにできます。もちろん裁判沙汰になるなんて事もないでしょう。安全で確実。人を殺す呪いじゃないから、対価も必要ない」

 ふう……と、煙を吐き出す遠藤。

「ただ、これは中々大変で金のかかる方法なんですが」

「かっ、金なら何とか工面する。何でもするっ」

 徳澤は前のめりになりながら、がっつく。

「それじゃあ、片方ずつでどうです?」

「は? 何を片方……」

 意味が解らず徳澤は問う。遠藤が煙草を灰皿に押しつけながら笑う。

「腎臓と目玉。片方ずつ。これで手を打ちましょう」

「腎臓と……目玉……?」

 唖然とする徳澤に向かって、遠藤は事もなげに言った。

「別なまじないの材料に使うんですよ、旦那。それで、ロハ・・って事で。俺が全部、お膳立てしてさしあげます……」

「対価はさっき必要ないって……」

「これは、呪いへの対価ではありませんよ、旦那。俺への報酬の話です。必要経費込みの」

「ほっ、報酬……」

 徳澤は恐怖で唇を戦慄わななかせる。

「これ、かなりお得ですよ? 本当なら、コレ・・ぐらいはかかりますから」

 遠藤はそう言って、人差し指を三本立てて下卑た笑みを浮かべる。

「旦那の安月給じゃ払えねえでしょ?」

 徳澤は頭を抱えて考える。

 その対価を払えば、あの恋い焦がれた横井圭子をモノにできる。

 徳澤は決心する。

「解った。差し出そう。腎臓と目玉を……」

 すると、遠藤は……。

「右と左、どっちにします?」

 と、言って不気味にほくそ笑んだ。


 徳澤が覚えているのは、そこまでだった――




 次に徳澤が気がつくと、そこは見知らぬ部屋であった。

 汚ならしいリノリウムの床。黄ばんだ壁と天井と乳白色の蛍光灯。窓はない。

 塗装のはげ落ちたパイプのベッドで上半身を起こし、辺りを見渡していると顔面の右半分と右脇腹の裏辺りに違和感を感じた。

 恐る恐る違和感のある場所を手を触れると、包帯が巻いてある……。

「……な、何だ、これは……?」

 その徳澤の震える声を待っていたかのように、唯一の出口である扉が開き、遠藤が姿を現す。

「お目覚めですか? 旦那」

「おい! これは、いったい、何なんだ! ここはどこだ!」

 その質問に遠藤は答えようとせずに、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながらベッドの脇へとやってくる。

「報酬はいただきましたよ、旦那。会社の方には、急性の腸炎でぶっ倒れたって事にしてあるのでご安心を。ゆっくり、寝ていってくだせぇ……」

 ぎひひひ……と、笑う遠藤。

「いつの間に……」

 彼の言葉の意味を理解し、徳澤は怖気のあまり震えあがる。

 そんな彼を気遣う様子もなく、遠藤は趣味の悪いジャケットから何かを取り出した。

「これが、約束のモンです。旦那……」

 それは金色のペンダントであった。

 ペンダントベッドには、奇妙な文字の並んだコインが吊るしてある。

「こ……これは……?」

舶来はくらいの魔術でさぁ。これさえあれば、横井圭子をモノにする事ができますぜ」

 そう言って遠藤は徳澤の首に、そのペンダントをかけるのだった。

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