【File28】密室殺人の館
【00】怪物VS怪物
二〇一六年八月十九日。
それは全国中学校柔道大会の会場だった。
アリーナ席で茅野循は膝の上に置かれた拳に力を込めて歯噛みしていた。
「あの東藤綾っていう子……強い」
「これは、流石にいくら梨沙先輩でも不味いかもしれないっすね……」
茅野の隣では後輩の速見立夏が不安げに眉をひそめている。
彼女の視線は現在行われている女子四十八キロ級決勝に注がれていた。
その舞台では当時中学二年生の桜井梨沙と同じく、中学二年生の東藤綾が激しい攻防を繰り広げている。
茅野の見立てでは、パワーとスピードとテクニックは桜井の方がすべて上。
だが、しかし……。
「あの東藤って人、戦い方が滅茶苦茶上手いっす……」
その速見の言葉に茅野は忌々しげに頷く。
試合開始直後の東藤はどちらかというと消極的であった。
これは桜井梨沙と対戦する選手によく見られる傾向である。
桜井は返し技
かといって手をこまねいて桜井梨沙の出方を
それを耐え切る事は極めて難しく、ほとんどの対戦相手は、この嵐を越えられない。
しかし、東藤綾は指導を一つもらいはしたものの、ほぼ死にゲー同然の試合序盤をどうにか乗り切る。
この時点では茅野も速見も、まあまあよくやっている方だけど、どうせ力尽きるだろう……そう考えていた。
そして試合開始から一分、二分が経過する。
ここまでずっと、桜井の猛攻が続き、それを東藤がしのぎつつ、ちょこちょことリスクの少ない技で攻めの姿勢を見せるという展開が続いていた。
そして、二分十秒が過ぎたところで、それは起こった。
この頃になると、さしもの桜井梨沙も全力の攻めによる疲労から、やや動きのキレにかげりが見え始めていた。
しかしそれでも、他の同年代の選手からすると比べ物にならない鋭さの
東藤の右足を
その刹那であった。
前に崩されていたかに思えた東藤の重心が元に戻り絶妙なタイミングで右足が後方へ引かれた。
ほぼ同時に東藤の左足が桜井の右足に襲いかかる。
小内刈を空かしてからの小外刈……見事なカウンターであった。
これにより、桜井梨沙は“技あり”を東藤綾に与えてしまう。
試合時間は残り五十秒。
“はいはい、どうせ今年も桜井梨沙の勝ちでしょ”と誰しもが考えていた会場が一気にどよめく。
そして、ここにきて会場にいる全員が気がついた。
あの
そして驚くべき事に、東藤は更に一段階ギアをあげてきた。
彼女は守りを固める事なく攻勢に出始めたのである。
それは暴風のような桜井梨沙のものとは異なり、リスクを最小限に押さえつつ、鋭利な刃物の如き鋭さを持つ冷徹な攻めであった。
お陰で今度は桜井が攻めあぐねて、指導をもらう始末……。
ここで茅野はようやく自分の見立ての甘さを悟る。
この東藤綾もまた
あと三十秒……二十秒……刻々と試合終了の時が迫る。
体力を使い果たして攻め手に欠ける桜井梨沙。
ここまですべてプラン通りに試合を運んだ東藤綾。
誰もが試合開始前とは逆に東藤の勝利を疑わなくなった。
「ああっ! 梨沙先輩、何ニヤニヤ笑ってるんすか! 余裕ぶっこいている場合じゃないっすよ!?」
速見が頭を抱えて絶叫する。そして茅野は絶望的な表情で
「違うわ。速見さん……梨沙さんがあんなに楽しそうに笑っている。つまり、あの東藤綾は、本物の怪物という事よ……」
「そうだった! ウチの先輩、頭のネジがぶっ壊れてる人だった!」
何気に酷い言い種だが、それはさておき……。
九……八……七……六……五……。
そして、試合終了寸前に奇跡は起こった――
試合終了三十秒前。
桜井が指導をもらい、東藤綾と再び組み合う。
東藤はこのとき自らの勝利を確信した。
相変わらず試合に集中しているのか、していないのか解らない、薄ぼんやりとした顔の桜井梨沙。その表情は試合開始直後とまったく変わらなかった。しかし、もう余力は残っていない。
直接組み合っている東藤には、まさにそれが手に取るように感じられていた。
足さばきにもキレがいっさいない。
ならば、守りになど入らない……東藤は力を振り絞り、
茅野はパワーもスピードもテクニックも東藤より桜井が上であると評したが、元々そこに致命的なまでの差はなかった。
そして桜井が力を使い果たした今となっては、その差は完全に逆転していた。
桜井が
東藤は右袖の引き手を切って桜井を押し潰す。寝技に持ち込もうとしたが、審判から「待て」の声が掛かる。
東藤が気がつくと、二人とも場外へと出ていた。試合が仕切り直される。
帯を締め直し、再び桜井と組み合う東藤。
誰かが「あと十秒!」と叫んだ。
このとき、東藤は何気なく桜井の顔色を
……彼女は今どんな気持ちなのだろうか。あの桜井梨沙でも悔しがったり、絶望したりするのだろうか。
その疑問が己のほんのわずかな慢心より生まれたと、東藤綾が気がつくのは、試合終了後の事となる。
兎も角、そのとき、桜井の表情を見た東藤は、言い様のない恐怖に襲われた。
……この子、笑っている。
まるで自分が数秒後に敗者へと転落する事など理解していないかのような、無邪気に思える微笑。それはまるで地獄の釜の縁で激しいステップを踏み続けるダンサーのような……。
「ひっ!」
東藤綾は思わず左半身を引いて、桜井梨沙の釣り手を切った。
臆病風に吹かれた訳ではない。
一流の戦闘者が持つ本能ゆえの無意識の反射であった。
次の瞬間だった。
桜井が右手を伸ばし再び襟を掴みにかかる。
東藤は考える。
あと試合時間は数秒もない。もうこのまま逃げ切っても構わない。ここでまともに桜井梨沙と組むのは危険すぎる。東藤が後ろへとさがる。
桜井の右手は東藤の左襟に届かない。中途半端に右襟を内側から掴む形になった。しかし、東藤は強引に重心を前方へ崩されてしまう。
どこにそんな力が残っていたのか、と思えるほどの力強さである。
きっと、この一瞬のために温存していたのだろう。それを悟った東藤は気合いを入れ直す。
怪物の最後の反撃がくる……。
桜井の身体が
東藤は先程と同じで苦し紛れに繰り出した背負投であると読んだ。
ならばもう一度、引き手を切って押し潰す。それで時間切れ。ジ・エンド……。
東藤は最後の瞬間まで己の勝利を
しかし、前に崩されたときに出た右足を襲う凶悪な衝撃。
刹那、東藤の両足が地を離れた。
反転する世界と背中から全身に伝わる衝撃。
審判が高らかに旗を掲げた。
爆音のような歓声。
そして、爽やかな笑みを浮かべながら胴着を整える桜井梨沙を見あげている事に気がついたとき、東藤綾は己の敗北を悟った。
溢れる涙で景色がぐにゃりと歪んだ。
試合後、桜井理沙は嬉しそうに茅野と速見に語った。
ここまで、自分を追い詰めた相手は未だかつていなかった、と……。
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