【15】謎の美少女


 ちょうど、御堂静香が二人の女子高生と白谷警察署前で別れた頃だった。


「えーっと、どうも、トシヤンソンです」

 そこは、埼玉県内某所の繁華街の狭い路地だった。往来に人の姿はあまり見あたらない。

 その一角にある電信柱の影で、カメラに向かって語りかけているのは、トシヤンソンこと御堂寿康であった。

「今日は、ちょっとした実験を行おうと思います」

 彼は電信柱の影から顔を出し、カメラを数メートル先にあるカフェに向けた。

「あの店、店頭の貼り紙によると、マスクをしていないと入店ができないらしいのですが……」

 そこで、ボディバッグの中から丸められた布を取り出して広げた。それをカメラのレンズに近づける。

「このマスクでもいけるかどうか、試したいと思います」

 それは、プロレスラーなどがしているようなマスクであった。

 装着したとしても目や鼻や口回りが露出する。当然ながら感染対策には一切の効果がない。

 因みに本来なら前回のような凸動画を撮るつもりだったが、いい題材がすぐには見つからず、三分で思いついたこのネタを選択した。

 くだらない上に店からしたらいい迷惑である。

 しかし、それで構わなかった。

 前回で盛大に燃えあがった炎に、すぐさま薪をくべなくてはならない。どんなものでも構わない。

 矢継ぎ早に、燃えあがった炎を維持するために……。

「……店の扉の張り紙には“マスク”としかありませんでした。なら、これでもいけるはずですよね? 入店は拒否できないはずです。では、いってみます」

 そう言って、トシヤンソンはマスクを装着し、電信柱の影から一歩を踏み出した。

 その瞬間だった。

「うおりゃああああっ! 死ねやあああああっ!」

 そんな雄叫びが聞こえ振り向くと、顔面をサンドウェッジで殴られた。

 むき出しになった鼻が潰れ、大量の鼻血が滴り落ちる。

「あ……ああ……」

 朦朧もうろうとしながらむせ返り、トシヤンソンは両膝を突く。

 すると、無理矢理マスクを引っ張られ脱がされた。

 鼻を押さえながら顔をあげると、サンドウェッジを持った小汚ない中年男が見おろしていた。

 まったく見た事のない男だった。

「おっ、お前、何だ……?」

 その質問を無視して、その男は言った。

「おめえ、トシヤンソンだな?」

「ちょっ、何を……やめろ……」

「ウルセエッ! お前なんか死んで当然なんじゃあー!」

 男がサンドウェッジを振りあげる。

 逃げようとして立ちあがり、背中を見せた瞬間に左右の肩甲骨の合間にサンドウェッジがめり込んだ。

 つんのめり、手にしていたカメラが地面に落下した。呼吸ができない。

 再び膝を突くトシヤンソン。その後頭部を足蹴にされ、アスファルトに突っ伏す。

 男がギラついた獣のような目で笑い、トシヤンソンの背中を踏みつけた。

「俺はよぉ……コロナで仕事も駄目になった。女房娘にも逃げられた……もう、俺、駄目なんだわ。でも死のうと思っても全然死ねねえんだ。怖くてよ。だから、お前殺して死刑になるわ」

「やめ……ろ……バカか。そんな簡単に死刑なんかになる訳……」

 男はそんな道理すら解らなくなるほどに狂ってしまっていた。正真正銘の狂人であった。

「五月蝿え、口答えすんな!」

 男はトシヤンソンの背中に乗せていた足をもう一度振りあげて、彼を踏みつける。

 ぐもった悲鳴が口から漏れた。

 このとき、トシヤンソンはようやく気がついた。

 自分の追い求めてきた拡散力など、いざというときに何の役にも立たない事を。

「糞……」

 何とか顎をあげて視線をあげると、遠巻きに眺める野次馬たちの足元が目に映る。誰も助けようとしてくれない。

 そして、トシヤンソンは、ようやく自分が炎の中で滑稽な裸踊りをしているのに気がつかなかった道化である事を悟り愕然がくぜんとする。

 憐れみ……嘲笑……憎悪……様々な冷たい感情を持った視線が全身を貫く。

 トシヤンソンは怖気おぞけのあまり全身を震わせた。

 おもむろに正面の野次馬がしゃがみ込んだ。その手にはスマホが持たれている。顔を撮られている。その野次馬は嗜虐的な笑みを浮かべてた。

 まるで動画の中の自分によく似た表情だった。

 トシヤンソンは、その野次馬の方へと右手を伸ばし絶叫する。

「俺を……見るなぁああああああっ!」

「うるせえ、馬鹿が!」

 トシヤンソンの右手にサンドウェッジが振りおろされる。

 ごりっ……という音がして小指と薬指が根元からひしゃげた。

 再び男はサンドウェッジを振りあげながらあざけり笑う。

「普通の人を殺したら叩かれるけど、お前みたいなムカつく野郎をぶっ殺しても、誰も悲しまねえから叩かれない……けけけけ。だから、俺が死ぬために死んでくれよぉ……」

「ああ……ああ……」

 このとき、彼の脳裏に過ったのは、受話口から耳をついた母親の煩わしい声音だった。

 自分の事をまったく信用していない、あのいつも怯えた母親の瞳。

 その顔がなぜか、先日自分が追い詰めて死に追いやった山田利美の泣き顔と重なる。

「お……か……あさん……」

 その呟きを耳にした男が鼻を鳴らす。

「……お前、本当に生きてる価値がねえな……クズがッ!」

 後頭部に生暖かい感触。唾を吐きかけられたらしい。

 ようやく、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。しかし、もう間に合わないだろう……トシヤンソンはすべてを諦めた。

 このまま、道化として生きるぐらいなら死んだ方がマシだ……。

 覚悟を決めてゆっくりと目を閉じる。

 男が絶叫した。


「あの世行きのチケットくれやあああああああああッ!!」


 サンドウェッジが振りおろされた――




 その白昼の凶行を何人かの野次馬が固唾かたずを飲んで見守っていた。

 中にはスマホのカメラを向けている者もいる。

 そんな集団を掻き分けて一人の人物が前に出ようとする。

 それは、まだ十代とおぼしき小柄な美少女であった。

 深紅のリボンで結んだ短めのツーサイドアップに、小花柄のレトロな膝丈のワンピース……剣呑な眼差しでサンドウェッジを持った男を見据え、猛獣のようにマスクに隠れた歯を軋らせる。

 明らかにブチ切れていた。

 そのうしろから同年代の友人らしき少女が、彼女の肩に手をかけて不安げな声をあげた。

「……ちょっと、アヤちゃん、やめなよ、これは流石に洒落になってないって」

 “アヤちゃん”と呼ばれた少女は前方を見据えたまま、その友人の少女に自らの鞄を押しつける。

「これ、ちょっと持ってて……」

「えっ……え……? アヤちゃん、ちょっと……待って!」

 戸惑う友人の言葉を無視して少女は野次馬たちの前に出る。

 サンドウェッジが路地に寝そべるトシヤンソンの後頭部をかち割る寸前でぴたりと止まった。

 男の狂気染みた双眸そうぼうが少女の姿を捉える。

「何だ……てめぇ……」

「やめろ、バカが」

 少女が低く唸るように言った。

 男は首を傾げ、にたりと口の端の両端を釣りあげて笑う。

「何だ、お前? このドクズの味方すんのか?」

 少女はこの質問に首を横に振った。

「違うわ。あなたがここでそいつを殺したら、あなたの娘は殺人鬼の娘ってことにされて、一生重い十字架を背負わされる事になる」

「だから、なんだっつーんだよッ!」

 男がトシヤンソンを踏みつけて少女に迫る。

「人生諦めたんなら、勝手に独りで他人に迷惑をかけずに死ね。それすらできないなら、ぎゃーぎゃー喚くな。大人しく草でも食って死ぬまで寝てろ。根性なしが」

 男の顔色が怒りで紅潮する。

「てめぇえ……」

 そして、サンドウェッジを構えた右腕を高々と振りあげて、少女に向かって駆け出す。

 野次馬の誰かが悲鳴をあげた。

「親のスネかじっている小娘が、でけえ口を叩くんじゃああねええよぉおッ!!」

 男が少女の眼前で踏み込む。

 彼女の脳天にサンドウェッジを振りおろそうとした、その刹那――。

 少女は右腕を伸ばしながら半身はんみになって、その一撃をかわした。サンドウェッジのヘッドが路上のアスファルトを強打して火花を散らすと同時に、少女の左の掌打が男の顎を叩く。

「ぐへぇっ!」 

 情けない悲鳴とよだれが飛び散る。

 少女は男の右襟を内側から掴み、左手で右袖を取った。

 竜巻のように少女の身体がくるりと回転する。

 右足が暴れ馬のように後ろへ跳ねあがり、男の右足を蹴りつけた。


 その技は“山嵐”


 かつて桜井梨沙が猿夢の中で見せた大技であった。

 男の両足が地面から離れ、宙を舞う。

 彼の身体が硬い路上に叩きつけられたと同時に、ようやく野次馬を割って警察官たちがやってきた。

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