【16】後日譚
二〇二〇年五月二十八日。
この日、桜井と茅野は分散登校のため、朝から教室で自分の席に着いて授業開始を待っていた。
教室内の様子については、生徒たち全員が口元をマスクで覆っている他は、そこまで以前と変わらない。
ただ、やはり、席を立たない生徒が多数で、友人同士話し合う者たちの距離も以前より広く感じられ、どこかよそよそしい。
因みに桜井と茅野の席は窓際の列の二番目と三番目である。
西木千里もクラスメイトであるが、この日は登校日でないために彼女の姿は教室にない。
二人は窓のある壁を背にして、それぞれ手元のスマホを
「高校女子柔道の女王お手柄、白昼の路上で暴漢を現行犯逮捕……」
茅野がスマホの画面に表示されたネットニュースのタイトルを読みあげる。
「……この子、あの
「うん。そだね。あの戦いは、
懐かしそうに微笑む桜井の手の中にあるスマホ画面では、その東藤がトシヤンソンを襲った暴漢を華麗に投げ飛ばすシーンが映し出されていた。
「もう部活の柔道には、それほど未練はなかったけどさあ、強いて言うなら彼女ともう一度、本気で戦いたかったよ……」
「コロナが終わったら、彼女に挑戦しにいくっていうのはどうかしら?」
「いいねえ……でも、東藤さんは、あたしの事、覚えているかな?」
東藤綾といえば、現在全国大会連覇中の日本女子柔道界期待のホープである。
彼女は中学二年生のときの全国大会決勝で桜井梨沙に敗れて以来、公式戦では負けなしであった。
「覚えているに決まってるわ。絶対に」
茅野は確信めいた口調で言うが、桜井は「そかなー? もうだいぶ昔の話だしさあ」と半信半疑である。
「そう昔の事でもないじゃない」
茅野が苦笑する。
この桜井の願いは近いうちに思いもよらぬ形で実現する事になるのだが、そんな事は知るよしもない当人は、話題をもう一人の気になる人物の事へと移した。
「そういえばさあ……トシヤンソンはどうなったのかな?」
「一応、記事では都内の病院へ運ばれたらしいわ。大した怪我ではないみたいだけど……」
「まあ、それは不幸中の幸いだね。まったく同情はできなけど」
桜井が嘆息すると、茅野はスマホに指を這わせながら言う。
「まだ例の黒猫坂屋敷の件はニュースになっていないけれど、時間の問題でしょうね。流石にあの件が明るみになれば、お得意の炎上芸どころじゃなくなると思うわ」
「炎上っていうか、もう爆発して粉々になっちゃってる感じだよ」
その桜井の独特の表現に対して、茅野はクスリと笑う。
「悪名は無名に勝るなんていうけれど、それは悪名を跳ね返せる中身がともなっている場合だけよ。手段を選ばないのはけっこうな事だけれど、自らの品性を切り売りしている事を忘れたらいけないわ」
「そだね。燃え過ぎて、燃えカスになっちゃったら本末転倒だよ」
と、桜井が肩を
こうして、彼女たちの日常が始まった。
その日の夜、黒猫坂の廃屋より行方不明だった少女の白骨死体が見つかったというニュースが報じられた。
更に遺体が発見された
これに関して茅野は、最近では恒例になったビデオ会議アプリでの雑談で、次のような見解を示した。
「有名な
『連続殺人鬼ってクソだね』
と、桜井は端的に罵倒した。茅野が更に話を続ける。
「きっと、トシヤンソンも、最初は雑誌や広告の切り抜きが
『あの“かんおけ”の中に入っていた切り抜きだね?』
「そうよ。その切り抜きから生きた動物に標的が移り変わり、殺人に至るハードルが著しく低下した状態の彼の元へと、運悪くやってきたのが千村双葉さんだった」
『ふうん……』と、何とも言えない表情で、気の抜けた相づちを打つ桜井。
そこから二人の話題は関係のない方向に脱線していって、二度と元には戻らなかった。
……この日以降、例の“胸糞動画”関連で、頂点に達していたトシヤンソンへの大衆の怒りは嫌悪へとすり変わる。
数少ないながらも悪ノリで彼を支持していた層も、一斉に掌を返した。
こうして、希代の迷惑系Youtuberは完全なる社会的な死を迎えた。
そして、
都内某所の精神病院にある閉鎖病棟の一室だった。
真っ白い部屋の壁際のベッドで膝を抱え、シーツを頭から被って震えるのは、トシヤンソンこと御堂寿康であった。
「ああ……嫌だ……嫌だ……知らない……知らない……もう、知らない」
怪我はもう治っていた。しかし、彼はまだベッドの上にいた。
きっと、世間は自分の事を間抜けな道化だと
あの一件で人の視線が極度に恐ろしくなり、部屋から出るだけで
そして、いつからか部屋の中にいても、視線を感じるようになった。
「やめろ……見るな……俺を見るな……見るな……見るな……」
背後から冷たい無機質な視線。
誰もいないはずなのに、常に誰かに見られているような……。
その視線の主が笑っているのか、怒っているのか、
それが寿康の恐怖心を更に煽る事となった。
「やめろ……見るな……知らない……やめろ……見るんじゃない……」
今も彼は背後からの視線を感じていた。
その視線に四六時中晒されて、彼の壊れた精神は日を追うごとに、更に
そんな彼の様子を廊下の覗き窓から眺めた刑事は
「どんどん、悪くなっていますね」
そう言ったのは、白衣を着た担当医である。
刑事は苦笑いして再び覗き窓の向こうの御堂寿康に目線を向けた。
すると、彼の背後に赤いマフラーを首に巻いた少女の姿を見たような気がして、目を
しかし、次の瞬間、もうそこには真っ白な壁があるばかりであった。
(了)
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