【10】地獄の家


 夜が暗い。

 そう感じたのは子供のとき以来である事を、加納憲一郎は思い出した。

 そして、その暗闇が怖い。

 加納はベッドの下に隠れながら、恐怖に押し潰されそうになるのをじっと堪えていた。

 まるで十字架にすがるかのように、包丁の柄をぎゅっと握り締めて。

 ようやく、ここにきて彼は、そもそもの選択肢を間違っていたのではないか……という疑念に囚われる。

 やはり、ここから逃げ出すべきだったか……でも、どこへ……そもそも何から逃げ出そうというのか……しかし、この家は何かがおかしい……思考が堂々巡りをし始めたそのときだった。

 すう、と部屋の戸が開く音がした。

 加納は息を飲む。誰かが部屋に入ってきた。カーペットを踏み締める足音。そして、強烈な石油に似た刺激臭――油絵で使うペトロールの臭気だ。

 それが加納の鼻腔びこうをむずつかせた。

 必死にくしゃみを堪えながら、首を横に向けて部屋に入ってきた主を確認する。

 刹那、加納はぎょっとして固まる。

 思わず出かかった声を必死に飲み込んだ。

 その薄汚れてやたらと大きい足には、アーチ状に湾曲した黄色い爪が生え揃っていた。

 くるぶしの上で、ちらちらとボロボロの赤いワンピースの裾が揺れている。


 ……あの怪物の女だ。


 加納は恐怖に目を見開き、全身の筋肉を強ばらせた。

 怪物の足はベッドの横を通過すると枕の方へ……そのまま視界から消える。

 加納はうつ伏せに身を返して、枕の方を見た。しかし……。

 怪物の足はどこにも見当たらない。

 ベッドの上だろうか。

 しかし、あの巨体がベッドに乗れば、流石に解るはずだ。

 加納は意を決して、再び仰向けになってベッドの下から顔を出す。

 やはり、ベッドの上には誰もいない。

 そのまま、加納は這い出て立ちあがる。部屋を見渡す。やはり、誰もいない。

「何だ……どうした? 俺はおかしくなってしまったのか……」

 加納は頭を抱える。次の瞬間だった。


 ……どん。


 唐突に背後から聞こえたその物音に反応し、咄嗟とっさに振り返る。

 そこには、いかにも十代の少年らしい勉強机。

 その向こうにある、クリーム色のカーテンに覆われた窓。


 ……どん。


 再び音がして、カーテンがほんのわずかに揺れた。

 加納は喉を鳴らして唾を飲み込む。

 ゆっくりと窓の方へ近づく。

 包丁を握った右掌が汗で滑り始めた。


 ……どん。


 加納は手を伸ばし、窓にかかったカーテンをひと思いに開け放った。

 すると、屋根の上にしゃがんでいたあの女がゲタゲタとわらいながら、両手で窓硝子を……どん、と叩いた。


「うああああああー!!」


 加納は総毛立ち絶叫した。

 きびすを返して部屋の戸を乱暴に開け階段をドタドタと降りる。

 そして、一階の床に右足の裏をつけた直後だった。

 右脇腹に強烈な突きをくらい、バチリと弾ける音がして青白い電光が瞬く。

 全身を駆け巡る苦痛。

 加納の全身の筋肉が硬直し床に崩れ落ちる。

「うっ……」

 恐る恐る顔をあげると……。

「あら。貴方、あの脱走犯ね」

 スタンロッドを手にした茅野循であった。絶対零度の眼差しで、加納を見つめる。そして、彼が転倒した際、床に突き刺さった包丁を引き抜き後ろへと放り投げた。

 階段の入り口の横に隠れて駆け降りてきた加納の脇腹をスタンロッドで突いたのだ。

「さて。どうしようかしら? このままでは梨沙さんがくる前に終わってしまうわ」

「ああああ……お前は、何を……何を言って……」

 加納はようやく思い知った。心の底から確信できた。

 この場所には踏み込んではいけなかったのだ。ここは地獄だ。地獄の家だ。

「慌てないで。夜は長いわ。そんな事より、何をそんなに焦っているのかしら?」

 その地獄の主が極めて優しい声で問いかけてくる。

 加納はガチガチと震わせた歯をかち合わせ、今度は階段の方を見あげた。

 すると、ゆっくりとあの怪物の女が降りてくるではないか。

「ああああーっ!!」

 情けない声をあげ、床に腰を落としたまま玄関の方へと這う加納。

 茅野は看守のようにスタンロッドで自らの掌をぺし、ぺし、と叩きながら、彼の事を追う。

「そんなに、怖がらないで頂戴ちょうだい。本当にどうしたのかしら? まるで幽霊でも見たかのように……」

「あっ、あっあー……」

 階段を降りてきた怪物の女が、茅野循の頭越しに加納を見おろしている。

 乱杭歯らんぐいばをガタガタと鳴らし、汚ならしく嘲笑あざわらっていた。しかし、それに茅野は気がついていないようだった。

「ここまで脅えられると、流石の私でもちょっと傷つくわね……」

 そう言って可愛らしく唇を尖らせてすねる。

 次の瞬間、加納は最後の力を振り絞り、立ちあがりながら駄々っ子のように両腕を振り回す。

「あああっ!! 糞、このッ!!」

「思ったより元気じゃない」

「近寄るな……近寄るな……!!」

 加納が泣き叫びながら背中を向けた。スタンロッドを振りおろす茅野。

 しかし、彼の決死の瞬発力と茅野がまだスタンロッドをそれほど使い慣れておらず、間合いを把握していなかった事が功をそうした。

 青い電光をまとった先端は、加納の背中にぎりぎり届かない。

「くっ。外した!」

「た、助けてくれえええー!!」

 加納はその隙に脱兎の如く玄関へと駆け出す。

 扉を開けて、この地獄の家からついに脱出した。




 桜井梨沙は猛スピードでペダルをこぎ、夜の町を疾駆しっくする。

 そして曲がり角を絶妙なコーナリングで曲がり、杉沢町の端の田園地帯と住宅街の境目に横たわる道へと入った。

 あと数十メートルも走れば右手に茅野邸が見えてくる。

 そのときだった。

「助けてくれええええー!!」

「むむっ」

 前方から汚いスウェット姿の男が裸足で走ってくるではないか。桜井は急ブレーキをかけて止まった。

 男は桜井の姿を目にするなり安堵あんどの表情を浮かべる。

 そして、その男の後ろから茅野循が姿を現す。

「梨沙さん、その男を捕まえて!!」

「がってん!」

 桜井は自転車の籠の中に右手を突っ込み、桃缶を鷲掴みにした。

 次に自転車から飛び降りると、野球のピッチャーのように片足をあげて大きく腰を捻る。

 振りかぶったその右手は、まさに処刑人の斧。

 往年の名投手、村田兆治むらたちょうじ彷彿ほうふつとさせる豪快なフォームであった。

「うりゃー!」

 そして、桜井は全力で桃缶を放り投げた。

「助けてく……うぐッ!!」

 桃缶は暗闇を切り裂き、見事に男の鳩尾を強打する。

 男は両手で腹を抑えて膝を突く。

 その背中に茅野が火花散るスタンロッドを当てた。

「確保っ!!」

 この一撃で白眼を向いて路上に平伏す加納憲一郎。

 桜井は倒れた自転車を起こしながら、凛々しい顔で言い放つ。


「これが、ソーシャルディスタンス腹パンだ」


 このあと、桜井のスマホで警察を呼び、脱走した加納憲一郎の身柄は再び官憲の手に渡ったのだった。

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