【09】友の元へ
加納憲一郎が順調に奈落への道を歩んでいる頃だった。
「いったい、どこにあるんだ……?」
穂村一樹は忌々しげに顔をしかめて寒々とした暗闇を見渡す。
そこは洋館の玄関ホールであった。
調度類はなく、がらんとした空間だけが広がっていた。
床に今も残る
それらだけが、この館の在りし日を静かに物語っていた。
しかし、地下室への入り口が見つからない。一階をくまなく見て廻ったがどこにもない。
すでに一時三十四分は回っている。赤い地下室の犠牲者が出ていない事を祈りながら九尾は口を開いた。
「場所を間違ったなんて事は……」
その言葉を穂村はぴしゃりと制する。
「ありえない」
そして懐からマイルドセブンを取り出すと、フィルターをくわえる。
「兎も角、もう一回、見て廻るしか……」
今度は九尾がその言葉を制す。
「待って……」
「何か感じたのか……?」
九尾は唇の前で人差し指を立てて、ゆっくりと目を閉じる。
相変わらず、この館に巣くう存在からの霊的な妨害が酷かった。しかし、目的に近づいたお陰だろう。ほんのわずかな彼岸の
九尾は目を閉じたまま、ゆっくりと歩き出す。
穂村はくわえた煙草をしまうと、黙ってそのあとに続く。
やがて、二人は館の裏手に横たわる回廊へと辿り着く。
九尾はその中心にある裏口の前で立ち止まる。
そして、裏口の反対側の壁に九尾は、ふわりと右手を触れた。
すると、彼女の脳裏に過去の光景が甦る――。
脅えた表情の男が
この館のどこかのようだが、場所はよく解らない。
――唐突に風景が切り替わる。
さっきの壁をぬっていた男が窓のない部屋で、イーゼルに立てかけられたカンヴァスへと向い、筆を叩きつけるようにして絵を描いている。
その瞳は大きく見開かれ、口元は三日月型に歪んでいた。
彼が描いているのは、不気味な女だった。
蛇のようなうねった黒髪に獣じみた
その部屋の壁際には、何枚ものカンヴァスが立てかけてある。
そこに描かれているのはすべて同じ不気味な女であった。
唐突に風景が切り替わる――。
パトカーの赤い回転灯の明かり。
身なりのよい三十代半ばの男女が、いかつい顔の背広姿の男と話している。
場所は裏口の前。ちょうど、今まさに九尾が立っている辺りだった。
しばらくすると、回廊の左側から寝巻き姿の少年がやってくる。
さっきの絵を書いた男の子供時代だ。
少年は身なりのよい女性に抱きついて、必死に何かを訴えている。
しかし、三人の大人たちは少年の事をなだめ、すかして、あしらう。
背広姿の男が降り階段を
その階段の入り口は、まさに九尾が触れている壁のある場所にあった――。
九尾は目を開ける。
「穂村さん……」
「何だ?」
「ここよ。この壁の向こうに地下室への階段がある」
穂村もその壁に近づき、左手の拳でコツコツと叩いた。
そして、うっそりとした溜め息を吐いて、眼鏡のブリッジを持ちあげた。
「壁をうち壊す道具がないな。応援を呼ぶか……」
あまり気が進まないといった様子で、穂村はスマホを取りだし、どこかへと電話をかけた。
時刻は一時五十分になっていた。
九尾天全が秩父の山奥で真面目に霊能者をやっている頃だった。
「……アヒルさん、忘れた」
入浴しようとしていた桜井は、忘れ物を取りに自室へと戻ってきた。
すると、ちゃぶ台の上にあげていたスマホの画面にメッセージ着信の通知がある事に気がつく。
「誰だろ。循かな?」
桜井はスマホを手に取り指を這わせる。
予想通り茅野からのメッセージで、その文面には、インターフォンが勝手に鳴るなど、おかしな事が起こったと記されていた。
そして、最後まで読み終わった桜井は眉をひそめて呟く。
「これは、まずい……」
急いで部屋着にパーカーを羽織り、マスクを着けて、スマホを持ち、玄関へ向かう。
「あ……そだ」
桜井はキッチンに寄って戸棚の中から、昨日のバイト帰りに買った桃缶の入ったビニール袋を持ち出す。
茅野薫へのお見舞いの品である。
そして再び玄関へ向かい、上がり
「梨沙。こんな夜中にどこへ行くつもりなの?」
座ったまま後ろを振り向くと、ナイトガウン姿の母親が
「桃缶なんか、持って……」
桜井は立ちあがり、スニーカーの爪先をとんとんとやりながら質問に答える。
「母さん、いかなきゃ。友を
「はあ?」
また、この子は訳の解らない事を言い始めた。面倒臭い……全力で眉間にしわを寄せる母。
桜井は、くるりと身を
「友を守護らなきゃ!」
「梨沙! ちょっと、待ちなさい!」
桜井は外へと飛び出す。自転車に乗り、全速力でペダルをこぎ茅野邸を目指す。
……友を
嘘である。
茅野のメッセージの最後には、こう書かれていた。
『どうも赤い地下室の件とは関係なく、家の中に鼠が一匹入り込んでいるらしいわ。これから鼠狩りなんか、どうかしら?』
別に茅野は桜井にSOSを出した訳ではない。
桜井も彼女の事を一ミリも心配していなかった。
彼女の機知を持ってすれば、どんなピンチがあろうとも問題にならない事をよく知っているからだ。
思考する時間さえあるならば、あの茅野循に勝てるものはどこにもいない……桜井は強くそう信頼していた。
若干、切れ味がいつもよりなさそうなのは気がかりであったが、そこまで深刻なハンデではないだろう。
では、なぜ、桜井梨沙は夜の町を
「循、ありがとう……」
せっかく敬愛すべき親友がお膳立てしてくれたこのビッグウェーブに乗らない手はない。そんな事はありえない。
そして、これは、不審者から友を
その大義名分を楯に何でもいいから一発ぶちかまさせろという、ひたむきな情熱が彼女を突き動かしていた。
時刻は一時五十五分だった。
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