【08】真夜中の訪問者


 茅野循がリビングから姿を消したあとだった。

 加納憲一郎は飾り棚からそっと顔を出した。

 そこで、ビデオ会議アプリは未だに繋ぎっぱなしだが、画面に誰も映っていない事に気がつく。

 更にテーブルの上にはスマホが置いたままになっている。

 しめたものだと、加納は内心でほくそ笑みながら考える。

 まずビデオ会議アプリをログアウトさせて、スマホを奪う。

 あとは風呂あがりの少女を捕らえて脅し、通話相手に就寝する旨をメッセージで送らせる。

 一分の隙もない完璧な計画だ。加納は自信に満ちた笑顔で頷き行動に移る。

 まず念のため、仕切り棚の上の固定電話のモジュールを抜く。

 そして、素早くパソコンの前に座りログアウトの操作をした。

 ここまでは順調だった。

 次に加納はスマホを手を伸ばす。

 そこで・・・ふと画面に・・・・・視線がいった・・・・・・

 そこに映された・・・・・・・絵が気になって・・・・・・・しまった・・・・

「何だ? これ……」

 その絵をまじまじと見つめる加納。

 窓も扉もない部屋。

 血染めのように赤い壁の前に人の人物が古めかしい木製の椅子に腰をかけて座っている。

 右端から、ジャージを着た肥った男。

 主婦らしき四十代ぐらいの女性。

 パジャマ姿の中学生くらいの女子。

 部屋着を姿の高校生ぐらいの男子。

 ピンクのスウェットの女子……その胸元には有名テーマパークのキャラクターがプリントされている。

 そして、一番左端の人物を目にした加納は驚愕のあまりまなこを大きく見開いた。

「何なんだ……これは……」

 スマホを持つ指先が震える。

 そこに描かれていた・・・・・・・・人物は・・・明らかに・・・・加納憲一郎自身・・・・・・・であったからだ・・・・・・・

「ひぃっ……」

 手の中にある物が、まるで得体の知れない毒虫か何かであるような気がして顔をしかめる。

 加納は腰を浮かせてソファーの上にスマホを投げ捨てた。

 すると、その瞬間だった。

 唐突にインターフォンが鳴り響いた。




 茅野循はリビングをあとにしてから、いったん二階の突き当たりにある自室へと戻り、着替えを持って浴室へと向かう途中だった。

 階段を降りていると、突然インターフォンが鳴り響いた。

 足を止めて眉をひそめる茅野。

 一瞬だけ桜井梨沙だろうかとも思ったが、彼女の家から茅野邸まで自転車で飛ばしても二十分ぐらいはかかる。

 ついさっき、自室のパソコンの前にいた彼女がこんなに早く着けるはずがない。

「……面白くなってきたじゃない」

 不敵な微笑みを浮かべる茅野。

 もう一度、インターフォンが鳴った。

 茅野は階段を降りると、玄関に向かって「はーい」と叫んだ。

 それからリビングへと向かう。

 スタンロッドを取りに行くためだ。

 そして、彼女はリビングの入り口にある半透明のアクリル扉を開けた。





 加納憲一郎はインターフォンの音を聞いて固まる。

 時刻は一時四十六分。

 こんな時刻に来客など普通ではない。

 再びインターフォンの音。

 そこで加納は「はっ」とする。

 あのビデオ会議アプリの通話相手が訪ねてきたのかと……。

 その考えに至った直後、部屋の外から「はーい」という少女の声が聞こえた。

 半透明のアクリル扉に人影が映る。誰かがリビングへとやってくる。

 加納はそそくさとキッチンへ戻ると、仕切り棚の影に身を隠した。

 すると茅野循がリビングに姿を現す。

 彼女は一瞬だけソファーや座卓の周りを眺めて首を傾げる。そして、綺麗に折り畳まれた着替えを座卓の上に置くと、代わりにスマホとスタンロッドを持ってリビングをあとにした。

 その光景をこっそりと見ていた加納は舌打ちをする。

 そして、もう一度、インターフォンが鳴った。




 茅野循がリビングをあとにした直後だった。

 再びインターフォンが鳴り響く。

 茅野は玄関近くにある洋間の扉付近のインターフォンパネルのスイッチを押す。

 すると、画面にエントランスの様子が映し出されるが――誰もいない。

 茅野は画面を数秒間だけ見つめたあと、三和土たたきに降りてサンダルを突っかけ、玄関の扉を勢いよく開いた。

 顔を出して外を見渡すが……。

「誰もいないわね」

 茅野は扉を閉めると桜井にメッセージを打ち始めた。

 もちろん、独りで心細かったなどという事はない。

 いよいよ面白くなりかけているのに、それを桜井に報せないだなんて、あり得ない事だった。

 あの敬愛すべき親友と、この状況を楽しみたい。

 これは茅野循から桜井梨沙への純粋な真心であった。それは社会的規範よりも優先される。

 しかし、桜井はもう入浴してしまったらしく、すぐに反応はなかった。

 茅野はいったんリビングへと戻る事にした。




 加納憲一郎は仕切り棚の影に身を隠しながら乱れかけた思考を整える。

 ここからは状況によって臨機応変な対応を迫られる。

 呼気を調えて精神を集中しようとする。

 すると、リビングの扉が開く音がした。加納はそっと顔をあげて様子を窺う。

 茅野循だった。

 ……その後ろに・・・・・何かがいる・・・・・

 加納は咄嗟とっさに頭をさげて、たった今目にしたモノの記憶を反芻はんすうする。

 それは蛇のようにうねった黒髪と、まるで獣のような乱杭歯を持った何か。

 辛うじて“女”であると形容できる怪物じみたモノ。

 長く鋭利な爪。身長も恐ろしく高い。百九十近くはありそうだった。

 包丁の柄を握る右手にぎゅっと力が入る。

 何とか呼吸が荒くなるのを堪え、再び頭をあげて様子をうかがうが……。

 あの不気味な怪物の姿は跡形もなく消えていた。

 茅野は再びソファーに寝転び、スマホを弄り始めていた。

 加納は頭をさげると、キッチンの奥の戸から外へと這い出した。

 その彼の瞳に裏口の扉が映り込む。

 もうこんな家から逃げ出すべきか……しかし、その思考はすぐに打ち消される。

 ここから逃げ出して、どこへ行こうというのか。また野宿か。別な家に押し入るのか。

 まだ四月の下旬で外は寒いし、安全な潜伏拠点にするには少女独りしか住んでいないこの家がベストである。

 あのスマホの画像や怪物は、きっと何かの見間違いだ。精神が昂っていたから幻覚を見たのだろう。

 インターフォンは誤作動したのだ。電波障害、配線やボタンの故障。よくある事だ。

 加納は気を落ち着けて冷静になり、再び茅野薫の部屋のベッド下へと逃げ帰った。

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