【11】長い夜の終わり


 茅野邸の門前で遠ざかるパトカーの回転灯を見送りながら、桜井梨沙は「ふう」と溜め息を吐いた。

 その横で茅野循が肩をすくめる。

「地下室の女は、来なかったけれど脱走犯が来てしまったようね」

 加納憲一郎は、いったん藤見署の二階にある留置場に収監される事になる。そして夜が明けてから県警に引き渡されるようだ。

「ところで、赤い地下室は? 見せてよ」

 桜井が要求する。

「それが、残念ながら……」と茅野はスマホを見せる。

 サイトの画面は桜井にメッセージを打ったあと、何時の間にか“404 not found”に変わっていた。

「じゃあ、スクショは」

「ちょっと、待って」

 茅野はスマホに指を這わせて操作する。だが……。

「あら……駄目ね」

 此方も“404 not found”

「上手くいかないねえ」と、残念そうに笑う桜井。

 茅野がパトカーの去っていった方向を見つめながら言う。

「そういえば、あの脱走犯、何かにすごく脅えて取り乱していたわ。突然、悲鳴なんかあげて」

「循が怖がらせ過ぎたんじゃないのお……?」

 桜井が悪戯っぽく微笑む。

 すると、茅野は首を横に振った。

「いいえ。あの男が悲鳴をあげたのは、私と遭遇する前よ。どうも二階に潜んでいたらしいんだけど、凄い絶叫が聞こえてきたわ」

 桜井は両腕を組み合わせ真面目な顔で思案したあと、冗談めかした調子で言った。

「循じゃなくて、あの男の方に地下室の女がきちゃったとか……」

「かもしれないわね」

 茅野はそう言って、桜井と顔を見合わせて笑った。


 ……こうして、二人の夜更かしは、ようやく幕をおろしたのだった。




 ところ変わって、藤見警察署の二階。

 白い頑丈な鉄格子。

 白い壁。

 わずか四畳半程度の広さ。

 奥には、ほとんど中が丸見えになるほど大きな監視窓のついたトイレの小部屋があった。留置場の居室である。

 その畳の床の中央に胡座あぐらをかいて項垂うなだれるのは、加納憲一郎であった。

 彼はこのとき、猛烈に後悔していた。

 もうシャバは怖いし、大人しく罪を認めて服役しよう。そして、田舎にでも引っ込んで今度こそ人生をやり直す……加納はそう心に決めた。

 そのときだった。

 突然、ふっ……と、蛍光灯の明かりが消えて辺りが暗闇に包まれる。

 加納は天井を見あげる。

 すると、再び蛍光に明かりがつく。そのまま明滅し始める。

「……何だ? ……何だよ。もう勘弁してくれよおおお……うっう……」

 加納は涙と鼻水を垂れ流し始めた。

 すると彼のいる居室へと足音が近づいてくる。


 ぺたり。ぺたり。ぺたり……。


 その足音の主が鉄格子の向こうに、ゆっくりと姿を現す。

「ああ……ああ……ああ……」

 加納の涙に濡れた顔が恐怖によって凍りついた。

 蛇のようにうねった髪、長い爪、獣じみた乱杭歯らんぐいば、血塗れのような赤のワンピース……あの怪物の女だ。

「何で……何で、俺なんだよ……」

 加納は畳に腰をおろしたまま、後退りする。背中がトイレの監視窓に当たった。

 女は鉄格子の向こうから加納をじっと見つめながら笑っている。

「あ……あああ……」

 そして、蛍光灯の明かりがふっと消えて、再びついたその瞬間だった。

 鉄格子の向こうにいた女が、いつの間か鉄格子の内側に立っていた。

 もう逃げられない。

 その事実を悟って、加納は大声で泣き叫んだ。


 ……加納の悲鳴を聞いて駆けつけた留置場の担当官が見たものは、もぬけの空となった居室であった。





 ちょうどその頃。

 秩父では穂村の元に二人の制服警官が駆けつけたところだった。

 その手にはツルハシと防災斧が握られていた。

 二人は穂村の指示通り、館の裏口の正面にある壁を壊し始めた。

 警官たちは自分たちが何をさせられているのか解らないといった顔をしながら、ツルハシと防災斧を振う。

 しかし、崩れた壁の向こうから地下室への階段が現れた途端、その表情をいっぺんさせた。

 穂村が懐中電灯で照らすと、狭いモルタルの階段の下に古びた白い扉が見える。

 そこで九尾は前に出て階段を降りようとした。すると警官の一人が「ちょっと、あんた……」と彼女を引き留める。

 穂村が、その警官の肩に手を置いて首を横に振る。

「いいんだ。彼女は」

「いいんだって……」

「君たちはここで待機していてくれ。何かあったら呼ぶから」

 警官は穂村と九尾の間で視線を往復させて、最後には諦めた様子で肩の力を抜いた。

 それを見た九尾は階段を降り始める。穂村があとに続く。

 扉は鍵が掛かっていた。

 穂村が九尾と場所を入れ替わり、バールでドアノブを破壊する。そして、扉を蹴り開けた。

 その瞬間、室内からむっと鼻を突くような臭気が漂ってきた。それは長い年月、閉ざされた空間で澱んでいた死の香りであった。

 二人は地下室に足を踏み入れる。

 穂村の懐中電灯の明かりが、その湿った暗闇をゆっくりと薙ぎ払う。

 そこは、画家のアトリエだった。蜘蛛の巣にまみれたストゥールとイーゼル。

 壁も、床も、天井も、すべてが赤い。

 部屋の中央の作業台には、綿のような埃にまみれたノートパソコンと、様々な画材が散らばっていた。

 右側の壁際には布に包まれた大量のカンヴァスが立てかけてある。

 そして、左側の壁際だった。

 それは六つの椅子に座った人影があった。

 黒んだ皮膚。抜け落ちた髪の毛。空洞になった眼窩がんか……。

 木製の椅子に座った干からびた死体が、並べられている。

「地下室の女の犠牲者か……」

「そうでしょうね」

 穂村の懐中電灯が、右端から順番に照らしてゆく。

 その光の帯が左端に到達した瞬間だった。

 人影の身体がびくりと大きく震えた。

 九尾と穂村は息を飲む。

 薄汚れたスウェット。枯れ草のような白髪。その項垂うなだれたこうべが持ちあがる。

「たっ……助けてぇえ……お願いぃい……うっう……もう嫌だぁ……うっうう……おうち帰りたいよぉおおお……」

 藤見署の留置場にいたはずの加納憲一郎であった。

 彼は九尾と穂村の姿を見るなり、充血した瞳から涙を溢れさせた。

「まだ、生きている……」

 九尾が男の元に駆け寄る。

 穂村は階段の上で待機中だった警官に救急車と更なる応援を呼ぶように叫んだ。

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