【02】幽霊の噂


 それは二〇一三年の九月の終わりだった。

 残暑があとを引く蒸れた空気は夜陰やいんに包まれて、すっかりと冷えきっていた。

 体育館脇にある武道場の入り口の石段に腰かけるのは、柔道着姿の桜井梨沙と速見立夏であった。

 桜井と速見は家が近い事もあり、幼馴染みと呼べるつき合いだった。

 当時の二人は藤見中学で火、木、土に開催されていた柔道教室に通っていた。

 この日も練習が終わり、二人は親が迎えにくるのを待っているところだった。

 体育館からは、まだ明かりが漏れており、バスケットボールの弾む音とシューズの鳴き声が耳についた。同日に開催されていたミニバスチームの練習がまだ終わっていないらしい。

「それで、先輩……」

 速見が水筒の中身をキャップにそそぎながら問うた。

「あの、今日やろうとしてた変な技、何なんすか……。先生がめっちゃ、びびってましたけど」

「“山嵐”だよ」

 桜井がぼんやりとした眼差しを夜空に這わせながら答える。

「何か、昔の凄い人の必殺技らしいんだけど……」

 そして、彼女は退屈そうに、ふわっ……と欠伸あくびをした。

「実戦では、まだ使えないかなあ……」

「実戦って、あの技、本当に試合で使うつもりっすか?」

 呆れた様子の速見の言葉に桜井は首を横に振る。

「違うよ。試合じゃなくて、実戦・・だよ」

 と、言った。

 速見は格闘技にあまり興味がなかったので、桜井の言わんとしている事がよく理解できなかった。怪訝けげんな表情で首を傾げる。

 すると、桜井が唐突に両手を突きあげて、再び大きく欠伸をした。

「あーっ、何か、こう面白い事ないかなあ」

「唐突っすね。面白い事って具体的には、何なんすか?」

「いや、何かこう、スリルのある事」

 この頃の桜井梨沙は退屈していた。

 試合をすれば連戦連勝。勝利が当たり前となってしまっていた彼女は目標を見失い、何のために自分が技を磨いているのか解らなくなりかけていた。

 そんな桜井を楽しませようと、速見は真面目な顔で考え出す。

 そこで、その日の昼間、クラスメイトの男子から聞かされた話を思い出した。

「……あ、そういえば、先輩」

「ん。なーに?」

「記念公園の噂、知ってます?」

 桜井はきょとんとした表情で小首を傾げた。

「何なの? それ」

「何か、記念公園に白い和服の女の子の幽霊が出るらしいんすよ」

「幽霊……」

 桜井はぼんやりとそう呟いたあとでしばらく何事かを思案し、かっ、と目を見開く。

「その話、詳しく!」

 急に食いつき始めた。

 速見は気圧されながらも、桜井の興味を引けた事をよしとして、記念公園の幽霊についての噂話を語ろうとしたところで桜井の母がやってきた。

 桜井家と速見家は家族ぐるみのつき合いがあり、二人の送迎は互いの両親が代わり順番に行っていた。

 この日は桜井家の当番であった。

 桜井の母に連れられて駐車場へ向かうかたわら、速見はかいつまんで自分が耳にした話を口にする。

「……何か、私のクラスの男子から聞いたんですけど、その男子の両親の知り合いのお爺さんが、毎日夜になると記念公園へと犬の散歩へ出かけるそうなんですが……」

「そこで、見たの?」

「はい」

 と、速見は頷いて、車の後部座席に身を滑らせる。桜井もあとに続いた。

 桜井の母が運転席に乗り込み、車を発進させる。

 速見が話を再開する。

「それで、あの公園の奥で、みんながジョギングとかする歩道沿いの植え込みなんすけど」

「あー、うん。木がいっぱい生えてるとこね」

「その前を通りかかったときらしいんすけど……突然、何もないのに犬が吠え出したらしいっす。その犬、普段は大人しいにも関わらず、グイグイとリードを引き、植え込みの方へと向かおうとして……」

「ごちそうの匂いがしたのか」

 鹿爪らしい顔で見当違いな合いの手を入れる桜井。速見は取り合わず話を続ける。

「それで、驚いてお爺さんが、植え込みの方を見ると、うっすらと白い何かが暗闇の中に浮かんでいたらしいっす。持っていた懐中電灯をそちらに向けて、目を凝らすと……」

 たっぷりと間を取る速見。桜井は、ごくり……と、喉を鳴らす。

「植え込みの奥の銀杏ぎんなんの下に、白い和服を着た血まみれの少女が立っていて……その少女はお爺さんを指差すと……」

 そこで速見は、ぐっと、声のトーンを落とす。

「にやっと笑い、口から赤い血を、どばっ……と」

「ふうん」

 桜井がぼんやりとした相づちを打つ。

 すると、その反応が期待外れだったのか、速見は唇を尖らせる。

「先輩……リアクション薄……」

「ごめん、ごめん。でもたいへん興味深い話だったよ」

 と、桜井は謝罪してから運転席の母親に向かって言った。

「お母さん」

「なーに」

 桜井母は面倒臭そうに返事をする。

「今から、記念公園に行こう!」

「何でよ?」

 ルームミラーに桜井母の困り顔が映る。桜井は拳を胸元に掲げながら答えた。

「幽霊をぶちのめす!」

「嫌よ。今日はすき焼きなんだから、早く帰るわよ」

「わーい!」

 こうして、桜井の脳裏から“記念公園の幽霊の噂”は、いったん吹き飛んでしまった。




「へえ……。立夏ちゃんも柔道やってたんだ」

 西木はコーラのペットボトルのキャップを捻った。因みにカロリーオフである。

『梨沙先輩にくっついて始めただけなので、私はあまり真面目に練習してませんでしたけどね。中学にあがってからは、柔道、辞めちゃいましたし』

 速見が照れ臭そうに笑う。

 続いて西木は、桜井へと話を振る。

『で、桜井ちゃんは、けっきょく公園には行かなかったの?』

『次の朝に思い出したから、日課のジョギングのついでにいってみたよ』

 そして茅野が話に入ってくる。

『……私もその日の前日に久々に学校へ行ったら、クラスメイトが幽霊の噂をしていたの。それで、ふと興味を持って記念公園に行ってみたのよ。そこで、初めて梨沙さんと出会ったの……』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る