【08】煙


 ガラガラと砂を噛んだ音がして、枡格子ますごうしの玄関戸が開いた。

 桜井梨沙は敷居を跨ぐと外に出て「ふう」と額に滲んだ汗を右手の甲でふいた。

 その後ろから茅野循が姿を現す。

 二人は廃屋の敷地の外へ出ると、門前を横切る通りを左手へと進む。

 すると、すぐに未舗装の坂道に突き当たる。

 この先に八女洞のある沢へと続く登山口があった。村内はくまなく見て回ったので、二人は坂を登り始める。

 すると、二十分ほどで山深い木立に囲まれた円形の空間に辿り着く。

 地面はぬかるんでおり、所々に水溜まりが出来ている。右端に錆びついたオフロードバイクが横倒しになっている。どうやら、カワサキのKSR100のようだ。

 その空間を挟んで、坂道の斜向かいに山林の向こうへと延びた細い登山道があった。

「……あそこだね」

「そうね。取り合えず八女洞に行ってみましょう」

「りょうかーい」

 円形の空間を横切り、登山道を目指す二人。

「……で、村で何か気になる事とかあった?」

 桜井の投げた極めて雑な質問に、茅野は思案顔で答える。

「強いて言うなら、この籠目村にある家には共通点が多い事ね。もっとも、倒壊している家屋も多くて何とも言えないのだけれど」

「共通点?」

「ええ。例えば、玄関の戸なんだけれど……」

 と、茅野が言いかけたところで、桜井がその微かな音に反応する。

 足を止めて振り返り、ミーアキャットのように警戒心をあらわにする。

「循……」

「ええ。梨沙さん」

 その徐々に近づいてくる音は、車の走行音であった。

「こんな時期に、こんな場所へやってくるなんて高確率で頭がおかしいに決まっているわ。隠れて様子をうかがいましょう」

「自分たちの事を棚にあげているのはどうかと思うけど、隠れるのは賛成だよ」

 二人は咄嗟とっさに敷地のすみへと駆けて、枯れ草の茂みの中に飛び込む。近くの大きな樹の幹の後ろに身を潜めた。

 すると、坂道を登って白のライトバンとメタリックブルーのアウディがやってくる。

 その中から降りてきた三人の男たちが交わす言葉に耳をそばだてる。

 

 ……やがて三人の男は、登山道の方へと姿を消す。

 桜井と茅野は茂みの中から出てくると、顔を見合わせる。

「怪しい。いかにも山歩きにきましたって格好だったけど……」

「そうね。“わざわざ、こんな格好してくる事はなかった”という事は、登山客を装っているという事でしょうね」

「スポットマニアかな?」

「だったら、いいんだけど……。取り合えず、追いかけてみましょう」

 桜井と茅野は三人の怪しげな男のあとを追った。




 笹野優清、前原健太郎、石峰大祐の三人は、三十分ほど黙々と木々の合間を割って延びる山道を歩き続けた。

 次第に水の流れる音が大きくなってゆく。

「宮谷のやつ、だいぶかねに困っていたみたいだからなぁ。FXで、相当溶かしたとか何とか……店の方も上手くいってなかったみたいだし」

 と、心配そうな前原に対して、笹野はヘラヘラと笑っていた。

「宮谷と最後に連絡を取ったのはいつ頃? 健ちゃん」

 その質問を受けた前原は、目線を上に向けて記憶を探る。

「去年の春先……五月の始め頃かな? 俺が久々に『宇宙』へと顔出して、もうすぐ時効だ、なんつって話してて。そのとき、あいつがFXで失敗したから早くまとまったかねが欲しいとか言っててさ。ほんで、次の週には、もう店も閉めっぱなしで連絡がつかなくなってた」

 どんよりと、石峰は表情を曇らせた。

 宮谷が勝手に金塊を持ち出し、借金を踏み倒して行方をくらませた可能性は考えられなかった。

 何故なら金塊の中には、事前に笹野が用意した偽物が混ぜてあった。そこには動物の生体調査に使われるGPSが埋め込まれており、裏切り者が出れば、すぐに解るようになっていた。

 しかし、笹野によれば、金塊が八女洞から持ち出された形跡はないのだという。

「もしかして、宮谷のやつ、もうどこかで死んでたりして……」

 石峰と前原が思っていた事を笹野は、あっさりと口にする。

 ぞっとしない表情で黙り込む二人を尻目に、笹野は話を続ける。

「自殺はないだろうね。失踪したのが五月の半ばだとして、二ヶ月も我慢すればまとまった金が入ってくる訳だし」

 前原が震えた声をあげる。

「まさか、ヤバいところから金借りて、ヤクザにでも捕まって、沈められたとか……」

 笹野が首を横に振る。

「それも同じだよ。そのヤクザに二ヶ月待って欲しいって頼めばいい」

「じゃ、じゃあ、いったい何だって言うんだよ……」

 その石峰の絞り出すような言葉に、笹野は軽い調子で答える。

「不慮の事故か、話の通じない相手・・・・・・・・に殺されたのか……どっちかだね。多分」

「話の通じない相手って、何なんだよ……」

 石峰は、ぼそりと呟いてうつ向いた。

 すると、まもなく視界が開ける。

 岩のむき出した斜面に挟まれた地の底には、渓流が白い飛沫しぶきをあげていた。

 三人は斜面をくだり、岩場をつたいながら上流へと向かう。

 時刻は十六時十五分になっていた。




 近藤家の薄暗い仏間で、背中を丸めて座るのは、由貴菜の義父である近藤博也だった。

 その視線の先には、穏やかな表情で微笑む女性の遺影があった。

 由貴菜の実母の真貴まきである。

 博也は真貴の事を今でも愛していたが、彼女に愛されていなかった事も理解していた。

 単に真貴は女手一つで娘を育てるよりは、旅館の若女将の座におさまった方がいいと考え、博也の求婚を受けたに過ぎなかった。

 博也は彼女の心を射止めるために、精一杯、羽振りのよい振りをして見栄を張った。

 それが原因で、予想以上に悪かった宝華荘の経営状態を結婚後に知り、真貴に多大な心労を与えてしまった事を博也は後悔していた。

 だからこそ、愛してもいない義娘の由貴菜を、自分の手で幸せに導く……それが、宝華荘のためでもあり、愛する真貴への償いでもあると本気で信じていた。

 博也は、その日も真貴の仏前で彼女に語りかける。

「お前の娘の結婚相手……とても、いい男だぞ。きっと、幸せになれる」

 すると不意に線香の煙が渦を巻いた。

 その煙越しに見えた真貴の遺影の表情が急に歪んだような気がして、博也はぎょっとした。

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