【22】悪夢の終わり


 雨は相変わらず降り続いていた。

 休日の為か総合病院一階のロビーには、それほど多くの人はいなかった。

 薬局前の待ち合い所で、つけっぱなしのテレビがお昼の情報番組を垂れ流していた。

 話題は先日誘拐されて元中学の担任に連れ回されていたという女優についてだった。

 君田優子は一階のカウンターで面会簿に記帳すると、許可証をもらって首にかける。

 そして、入鹿卓志の病室へと急いだ。

 陰鬱な静寂の中、薬品と有機物の臭いが混ざりあったような、病院特有の香りが立ち込めていた。

 古びたエレベーターに乗り込んで、薄暗い廊下を渡り、君田優子は辿り着く。入鹿卓志の病室へ。

 彼女の千々ちぢに乱れきった心とは対照的に、入鹿卓志は静かに眠っていた。まるで、死んでいるかのように、青ざめて……。

 君田はベッドの脇に立って、その顔をのぞき込む。

「ねえ。貴方がやったの?」

 答えは聞こえない。

 代わりに甦る。

 三人で過ごした日々。

 そこで交わされた会話。

 いつかの矢島の言葉……。


 『入鹿は俺の親友だよ』


「ねえ、タクくん……答えてよ。ねえ……?」

 答えはない。

 それが、はぐらかされているような気がして堪えようのない怒りが込みあげる。

 君田の頬を生温い涙が伝う。

「ねえ、タクくん……起きてよ」

 無意識のうちに、君田の腕が彼の細い首へとかかる。

「ねえッ! タクくんッ!」

 裏切られた気がした。

 ずっと、長い年月、盗撮されていた事はどうでもよかった。

「ナオくんはねえ、あなたの事を心配していたんだよ! ずっと……」 

 仲のよい二人を見ているのが好きだった。でもそれは全部まやかしだった。 

 君田は、その自らの怒りの根源に気がついた。

 入鹿卓志が矢島直仁を裏切った事が許せないのだと。

 十本の指先が彼の喉元に食い込む……。

 次の瞬間だった。

 突然、背後から腰に腕を回されて、ベッドから引き離された。

 両足がわずかに宙を浮き、君田は右側へ放り投げられる。

「きゃっ……」

 床に叩きつけられて短い悲鳴をあげる。痛みを堪えながら上半身を起こし、視線をあげると見知らぬ少女が自分を見おろしている事に気がついた。

 ポニーテールの小柄な少女だった。

 そして、その背後でいつの間にかベッドの脇に立っていた黒髪の少女が入鹿の右腕を取りながら言った。

「あったわ。刺青」

「じゃあ、やっぱり犯人は彼なんだね」

「犯人って……」

 その小柄な少女の言葉を聞いて、君田は理解した。

 この二人はすべてを知っているのだと……。




 雨は依然として降りしきっていた。

 桜井、茅野、君田の三人は病院内にある食堂へと移動した。奥まった四人がけの席に座り、あのグリーンハウスにまつわる一連の出来事について話し合う事になった。

 まずは君田が事情を明かして、次に茅野が現在解っている事を話す。

 因みに桜井と茅野は、君田の話を聞いてもさして驚いた様子を見せなかった。

 桜井がきつねうどんをすすりながら「ふうん」と気の抜けた返事をしたので、君田は不安にかられる。

 そして、茅野はすべての話を終えると、たっぷりと甘くした珈琲を一口飲んで、つけ加える。

「……あの壺を処分してくれた霊能者の話では、彼もまた呪われて猿夢を見ていたらしいわ。もっとも、術者は夢から目覚める方法を用意しているから、死ぬ事はないのだけれど」

 君田には、茅野が何を言いたいのかよく理解できなかった。黙って彼女に話の続きを促す。

「……でも・・彼は目覚め・・・・・る事もない・・・・・

 そこで桜井が、お揚げにかぶりついたまま動きを止めた。

 茅野は悪魔のように微笑みながら、その言葉の続きを口にする。

だから・・・きっと彼は・・・・・二〇一九年の・・・・・・四月八日から・・・・・・ずっと・・・何度も悪夢の中・・・・・・・をさ迷っていた・・・・・・・事になる・・・・

 大きく目を見開く君田。

 桜井が遠くを見る目で「終わりがないのが終わり、か……」と呟いた。

「だからといって、死んだ矢島さんが生き返る訳ではないのだけれど……」

 そして茅野は、話をこう締めくくる。

「気休めにもならないかもしれないけれど、わざわざ、貴女が手を汚してまで、彼に罰を与える必要はないわ」

 それを聞いて、君田はうつむく。

 そして、自分の手元にあった、恐らくは彼の心のように闇深い珈琲カップを覗きながら、どこかほっとした様子で微笑む。

「……止めてくれて、ありがとう」

 そのとき聞こえ続ける雨音が、この陰鬱な悲劇の終わりに向けられた拍手であるかのように、君田には感じられたのだった。


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