【13】不気味な影


 点滴から垂れ落ちるしずくが透明なチューブを流れ、青ざめた腕に浮かびあがった静脈へと吸い込まれてゆく。

 寒々とした個室のベッドに横たわり、固く瞳を閉じているのは、二〇一九年四月八日から事故で意識を失ったままの入鹿卓志であった。

 医師の所見では、目覚める見込みはほとんどないらしい。

 その剥製染はくせいじみた寝顔を見つめるのは、ベッド脇のストゥールに腰をおろす君田優子である。

「タクくん……」

 君田は白いシーツの上に投げ出された入鹿の右手をそっと握る――。


 それは、桜井と茅野の二人がちょうど、近藤由貴菜の元で情報収集に勤しんでいる頃の事だった。

 君田は外回りの仕事のついでに、入鹿が入院している病院へと立ち寄った。

 君田と入鹿、そして矢島は同じ町で育った幼馴染みで、お互いの性を意識する以前の小さな頃から、よく一緒に遊んでいた。

 その三人のうち一人が死に、もう一人が生死の境をさ迷っている。

 この事実を踏まえて、君田は思い浮かべる。

 石垣の上から見おろすようにして存在する、あの忌々しい建物――グリーンハウスの事を。

 二人はこうなる直前まで、あの場所で暮らしていた。

 ……あそこには何か恐ろしい秘密がある。

 その正体は解らない。

 しかし、君田は確信していた。

 妄想や勘違いなどではなく、それは確実にあのグリーンハウスに存在しているのだと――




 君田優子は高校を卒業後、親戚のコネで地元の小さな食品加工会社に就職した。

 この頃には、すでに矢島や入鹿とはすっかりと疎遠になり、町で偶然すれ違っても挨拶すらしない程度の関係になりさがっていた。

 仕事は特に面白いという訳ではなかったが、それなりのやりがいを見いだし、そこそこの熱意をもって日々取り組んでいた。

 そんなある日の事。

 彼女が二十歳の誕生日を迎え、しばらく経った頃、同じ職場の同性の先輩から食事会に誘われた。

 面子はその先輩の他に彼女の友人二人、そして大学生の男子四人……要するに合コンである。

 当初の君田はあまり乗り気ではなかった。確かに彼女も年頃の女子相応に異性との出会いには飢えていたが、相手の男子が学生というのはどうにもいただけなかった。

 高校を卒業し、すぐに社会人として働き始めた彼女にとって、大学生として青春を謳歌おうかする同世代たちは、幼稚で別世界で暮らす人間のように思えたからだ。

 そこには、学歴へのコンプレックスめいた思いもあったのかもしれないが、それはさておき……。

 元々、断る事が苦手で、その先輩にも仕事の上でたくさん世話になっている君田は、嫌々ながら合コンに出席する事にした。

 そこで、偶然にも顔を会わせたのが幼馴染みの矢島直仁であった。

 二人はお互いの運命と世間の狭さに爆笑し、旧交を温め直して意気投合した。

 元々顔はよい矢島に対して、君田は仄かな憧れを抱いていた。

 もちろん、彼の傍若無人ぼうじゃくぶじんとも言えるやんちゃな性格もよく知っていた。

 しかし、一足先に社会に出て働く大人の自分ならば、経済的にも精神的にもアドバンテージを握ったうえで交際に望めるのではないか……という目算があった。

 結果その日のうちに君田は矢島の誘いに乗り、郊外のホテルで関係を結ぶ。二人は晴れて恋人同士となった。

 そのおよそ一ヶ月後の事だった。

 君田は矢島に誘われて、初めてグリーンハウスへと訪れた。

 それが二〇一八年十一月二十三日の事だった。




「ここが、入鹿の部屋……おーい」

 矢島はそう言って二〇三号室のドアノブをガチャガチャ揺すったり、扉板はバンバン叩いたりし始めた。

 休日の昼間とはいえ、あまり大きな音を立てては迷惑なのではないだろうか。

 君田は内心冷や汗をかきながら、周囲を見渡すが幸いにも人気ひとけはなかった。

「ちっ。入鹿のやつ、今日は優子を呼ぶって連絡入れたのにどっか出かけてんのか?」

「まあ、いいじゃん……早くナオくんの部屋に連れていってよ」

 君田は苦笑しながら矢島を取りなす。

「ああ、そうだな」

 こうして二人は、二〇二号室の前を通り過ぎ、二〇一号室へと向かった。




「意外と綺麗にしてるじゃない」

 そう言って君田は、ゆっくりと室内を見渡しながら掃き出し窓の前に立った。

「だろ?」

 と、得意気に言う矢島の顔が硝子に映り込んだ。

「珈琲入れるから、くつろいでろよ」

 そう言って、彼はキッチンの前に立つ。

 君田はそのまま、硝子の向こうの外庭を眺める。

 外庭はパティオに比べると簡素な印象であったがよく手入れがなされていた。

 少し湿ったむき出しの土の上に玄関前から続く飛び石の列が過り、建物の裏手へと続いている。数メートル先には石垣の縁があり、その手前を白橿しらかしの生け垣が遮っている。

「ミルクだけで、砂糖なしだっけ?」

 背後から声が掛かり君田は振り返る。

「うん。よく覚えててくれたね」

 まだ付き合って一月ひとつき。彼の前で珈琲を飲んだことなどほとんどなかった。純粋に意外だった。

 矢島は「そりゃあな……」と、また得意気な顔をする。

 まるで、子供のようだ。そういうところが可愛いなどといったら怒るのだろうな……などと、考えるうちに君田の口元に笑みが溢れる。

 それを見た矢島が怪訝けげんそうな顔をした。

「何だよ?」

「別に」

 素っ気なく、そう答えて部屋の中央にあるローテーブルに添え置かれたクッションに腰をおろした。

「何かあったっけな……お菓子とか」

 矢島がキッチンの棚を漁り始める。

 君田は微笑んだまま「別にいいよ」と言った。その瞬間だった。

 それは視界の端……掃き出し窓の右端だった。

 誰かが部屋の中を覗き込んでいる。

 右横から突き出た頭の上半分。絡みつくような不快感を伴う強い視線……。

 君田は、はっとして掃き出し窓の方を見た。同時にその何者かの顔が引っ込む。

 慌てて立ちあがり、再び窓際に立つ君田。

 しかし、もうそこには誰の姿もなかった。

「どうした……?」

 矢島がキッチンの方からやってくる。

 君田は、しばし唖然あぜんとしたあと首を横に振る。

「ごめん。気のせいだったかも」

「何だよ。まったくよお……」

 矢島が君田の肩を軽く小突いた。

 きっと、何かの見間違いだ……このときは、そう思った。

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