【08】犬猿


 まず茅野はデジタル一眼カメラのチェックをし、桜井は二人分の弁当と朝食を手早く作る。

 それから身支度を整え食事を取った。

 メニューはフレンチトーストに厚切りのベーコンエッグ、野菜スープにコールスローという何ともオーソドックスなものであった。

 因みに二人のスマホには、西木から安否を気遣うメッセージが届いていた。どうやら、昨晩二人が寝たあとに送られたものらしい。

 桜井は『猿夢は思ったほど強くなかった』と返し、茅野は有名なテーマパークのキャラクターがサムズアップしているスタンプだけを返した。

 西木は、まだ寝ているらしく返事はすぐにこなかった。

 そうして、二人は予定の六時に悠々とグリーンハウスをあとにする。

 最寄りの駅に向かって、県庁所在地を目指す。そこから藤見方面の下り列車に乗り換えた。

 二両編成の長い座席に並んで座りながら、昨晩の事について話し合う。

「そういえば、カメラの映像はどうだった?」

 桜井の質問に、茅野は不機嫌な表情で答える。

「オーブ一つなかったわ」

 ただ延々と二人の寝姿が映っていただけだった。

「それは、残念だね」

 桜井もしょんぼりと眉尻を落とす。

「……それはそうと、梨沙さん」

 茅野は切り替えた様子で言う。

「何?」

「梨沙さんの見た猿夢には、犬の鳴き声は聞こえたかしら?」

 茅野の問いに、桜井は頭上のつり革を見あげながら記憶を反芻はんすうした。しばし思案顔を浮かべる。

「……そういえば、聞こえなかったね。バトルに夢中で確かではないけどさあ」

 小松は犬の鳴き声が遠くから聞こえて目を覚ましたと言っていた。

「循は?」

 桜井に聞き返され、茅野は首を横に振る。

「私の猿夢でも聞こえなかったわ」

「どういう事なんだろうね……小松さんの猿夢はあたしたちの見た猿夢と違うのかな?」

 首を捻る桜井。

 茅野はあごに指を当てながら呟く。

「もしかすると、犬の鳴き声は猿夢と関係ないのかもしれない」

「どゆこと?」

「まだ何とも言えない」

 そう言って茅野はスマホを取り出す。

「ちょっと、彼女・・に確認したい事ができたわ」

 そう言って、小松にメッセージを送った。




 学校に着いたあと、二人はいたって普通の日常を送る。そして、放課後になると、部室に立ち寄る事なく早々はやばやと帰路に着く。

 なお西木には、しっかりと経過報告をした。心配をかけた友人への、彼女らなりの配慮はいりょである。

 西木は何ともコメントに困った様子で「たぶん大丈夫だと思うけど気をつけてね」と猿夢に挑む二人にエールを送る。

 ともあれ、二人は藤見駅から電車に乗り、真っ直ぐグリーンハウスへ帰ると思いきや、最寄り駅の二つ前で降りた。

 小松によれば、この駅裏にあるアパートに中国人留学生の趙琳霞が住んでいるのだという。

 二人は、ある事を確認する為に彼女の元へと向かっていた。

 本来なら小松に仲介を頼むのが筋であろうが、彼女は例の引っ越しの一件以来、微妙に避けられているらしい。

 それならば……と、直接会いにいく事にしたのだ。

 冬らしくない陽気の中、駅裏に広がる年季の入った住宅街の細い道を進む。

 すると五分程度で彼女の暮らすアパートが見えてきた。

 ガトーショコラのような色合いの外観で、二階建ての何の変哲もないアパートだ。

 その正面右手にある錆びついた外階段を登り、いちばん手前が趙琳霞の暮らす部屋なのだという。

 二人は扉の前に立つ。

「いればいいけど……」

 小松によれば趙はバイトと学校以外、連れ出さなければ家に籠ってばかりいるインドア派なのだという。

 茅野がインターフォンを押した。

 すると、呼び鈴のあとに扉板の向こうから、がさがさと物音が聞こえ始める。

 数秒後、ぷつ……と音が鳴ってインターフォンのスピーカーから声がした。

「はい……」

 まるで寝起きのような、か細い声だった。

 茅野は桜井と一瞬だけアイコンタクトをかわし口を開く。

「えーっと、宅配なんですけど、判子かサインお願いしまーす」

 古典的な手法である。しかし、効果はあったようだ。

 足音が聞こえ、がちゃりと解錠の音。扉が開き防犯用のチェーンが真っ直ぐに伸びる。

 その瞬間、桜井が隙間に右足の爪先を差し込み、扉を押さえつけた。

 茅野も隙間から室内を覗き込む。

「趙琳霞さん? ちょっと、お話を……」

 すると、その瞬間だった。

 扉の向こうにいたスウェット姿の女の顔が見る見る恐怖に歪む。

 腰を抜かした様子で、三和土たたきに尻餅をつき中国語で何やらわめき始める。

「ねえ、どうしちゃったのかな?」

 桜井が不安げな眼差しで、隣に立つ相方の顔を見あげた。

 茅野はというと冷静な表情を崩さぬまま、扉口の向こうの趙琳霞に向かって、その言葉を口にする。

シーチュエンフゥーティー

 すると、趙はぴたりと声をあげるのを止め、ポカンとした表情で扉の向こうの茅野の顔を見あげた。

「循、それって……?」

 桜井の問いに茅野は趙琳霞の方を見たまま答える。

「恐らく彼女が小松さんと初めて会ったときに呟いた言葉がこれよ」

 趙がゆっくりと頷いた。そして、茅野の解説は続く。

「犀犬は中国の伝承にある犬の妖怪の事。地中にいて、上手く飼い慣らせば一家に繁栄をもたらすとされる。附体は“取り憑かれている”って事よ」

「えっ、じゃあ……」

 桜井の言葉に茅野は頷く。

「小松さんは、あの部屋に住む前から犬の妖怪に取り憑かれていたの」

 すると趙が怯えた表情で言う。

「アナタたちのうしろに雍和ヨンホーが見える。アナタたち、あのグリーンハウスの雍和ヨンホーに呪われてるよ」

「よん……ほ……ん?」

 桜井は親指だけを折った右手を掲げて首を捻る。それとは対象的に茅野の方は、納得した様子で頷いた。

「四本ではなくて雍和ヨンホーよ。恐怖をもたらす猿の妖怪の事ね。確か」

「ああ、猿夢の事ね」

 桜井も得心する。

 茅野は真摯な口調で扉口の向こうへと訴える。

「その呪いを解く為に、是非とも貴女のお話をうかがいたいのですが。力を貸していただけないでしょうか?」

 趙はへたり込んだまま、たっぷりと逡巡しゅんじゅんして立ちあがる。

 そして扉のチェーンを外した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る