【07】猿夢VS桜井梨沙


 電車の走行音と振動。

 すべての吊り革が同じリズムで揺れている。

 明滅する天井の蛍光灯。

 光から闇……闇から光へ。

 車内が照らされるたびに壁と床が紫色に光る。

 同時に、まばらに座る他の乗客たちの黒い影が亡霊のように浮かびあがり、また再び闇へと沈む――。


「……はっ。ここは……」

 桜井梨沙は見知らぬ電車の四人がけの席で目を覚ます。

 窓硝子に映り込んだパジャマ姿の自分の見て、桜井は歓声をあげた。

「やったー! 猿夢だよ!」

 そして、すぐに相方の姿を探すが……。

「あれ? 循は……」

 明滅する明かりの中、目を凝らして車内を見渡すが、茅野循の姿はどこにも見当たらない。

 いったん腰を落ち着けて思案する桜井。そして、両手をぽんと打ち合わせる。

「そうか。これは、あたしの見ている猿夢だから、循はいないのかな……?」

 と、その直後、ぷつ……ぷつ……という、ノイズの音が聞こえ、車内アナウンスが鳴り響く。


『……の列車は特急……号……行き……』


 徐々に途切れ途切れの音声がはっきりしてゆく――。


『次は……グリダ……エグリダシです。お出……は……側です。乗り換えはできません』


「きた! きたね! きたねえ!」

 桜井は椅子から勢いよく腰を浮かせ、通路に立った。

 やがて、ガタガタと後部車両へと続く連結部分のドアが開き始めた。

 それと同時に桜井は全速力でダッシュする。

「うおー!」

 ドアが開いた。戸口の向こうから背の高い猿顔の車掌が姿を現す。

 すると、その胸にミサイルのような桜井の両足が着弾した。

 ドロップキックである。

 車掌は吹っ飛んで、開いたままだった後部車両の扉口の向こうに背中を打ちつけて倒れ込む。

「先手必勝!」

 床に落下した桜井は、素早く身を起こす。

 マウントを取りにかかろうと倒れた車掌に近づくが――。

「うおっ!」

 車掌は右手の肉切り包丁を振り回しながら立ちあがる。

 後退を余儀なくされる桜井。

 起きあがった車掌と睨み合う。

 断続的に続く、がたん、ごとん……という走行音と共に、二人の間に横たわる連結部分が蛇のようにうねる。

 同時に開きっぱなしのドアが、せり出し、引っ込んだりを繰り返す。

 時はゆっくりと流れて――。

 先に動いたのは車掌の方だった。

 早足で連結部分をまたいで桜井に迫り、肉切り包丁を振り回す。

 血と脂にまみれた禍々しい刃が弧を描く。

 しかし、桜井は、その斬撃を鼻先でかわしながら後退する。

 車掌は攻撃を繰り返しながら彼女を追う。

「いいねえ。たぎるよ」 

 桜井は、ほくそ笑む。

 車掌の手さばきが思ったよりも素早かったからだ。

 かわした次の瞬間、刃は燕のように急旋回し、新たな軌跡を描いて襲いかかってくる。

 反撃を許さない隙のない攻撃……しかし、刃もまた桜井をとらえる事ができない。

 斬撃は吊革を揺らし、背もたれや支柱を叩いてけたたましい音を奏でる。桜井は自らの鼻先を通過する刃をまたたきすらせずに回避し続ける。

 そんな局面が延々と続くかに思われた、そのときだった。

 桜井が車両前部のドア前にあるスペースへと後退した直後、がたん……と、電車が大きく揺れる。

「おっと……!」

 桜井の脚がもつれる。好機と見た車掌はここで仕掛けた。肉切り包丁を高々と振りあげる。

 桜井の頭頂に死の一撃が襲いかかった。

 しかし、絶体絶命であるはずの彼女の口元に浮かぶのは勝利の微笑であった。

 肉切り包丁が振りおろされる直前、桜井は何事もなかったかのように体勢を立て直す。

 バランスを崩したように見えたのは大振りを誘う為のフェイクだったのだ。

 桜井は凶刃の柄を握る車掌の右手首を左手の甲で弾いた。斬撃の軌道が大きくずれて、空振りに終わる。

 そのまま桜井は踏み込んで車掌の右襟みぎえりを内側から取った。同時に右袖も取る。

 刹那せつな、くるりと身をひるがえしながら、うしろ蹴りをかますように車掌の右脛みぎすねを勢いよく払いあげる。


「とりゃあー!」


 若干、気の抜けたかけ声と共に放った技は“山嵐”

 伝説の柔道家、西郷四郎さいごうしろうが得意とした大技である。

 どん……と、大きな音が鳴り、車掌の背中が床に叩きつけられる。それと寸分違わぬタイミングで、桜井は襟を握った釣り手の拳を捻り込むように車掌の肩へと押しつける。

 ごきり……という音と共に車掌の鎖骨が折れた手応えを感じ、桜井は獰猛な笑みを浮かべた。

 醜い猿顔が苦悶くもんの表情を浮かべる。

 桜井が右足を車掌の首の上で振りあげる。

「まさか、これで、終わりじゃあ、ないよねえ……」

 ギロチンのように右足を振り下ろす――



 けたたましいベルの音。

 桜井が目を開けると、そこには見慣れない天井があった。

「はっ、そういえば夢だった……」

 桜井は上半身を起こした。すると、ほぼ同時に茅野がベッドの上で上半身を起こした。

 二人は目線を合わせる。

「梨沙さん、おはよう」

「循、おはよ」

「見たかしら?」

「見たよ。循は?」

「じっくり、堪能たんのうさせてもらったわぁ……」

 うっとりとした顔をする茅野。どうやら、こちらはこちらで楽しんだようである。

「梨沙さんはどうだったの……?」

「鎖骨を一本いただいた」

「流石ね」

 相方の健闘に、ぱらぱらと拍手を送る茅野であった。そして、ベッドから足を出して床につける。

「……とりあえず、話はあとにして朝の支度を始めましょう」

「そだね」

 二人は起きあがり、平然と登校の準備を始めた。

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