【13】解りやすい結果


『とっとと、れ』


 遠野瑞枝は受話口をゆっくりと耳元から離し、暗くよどんだ瞳でスマホを見おろした。

 綺麗に掃除が行き届き、温かみのある色合いを基調とした自宅リビングの空気が、急に寒々と冷え込んだような気がした。

 ようやく絶望から這いあがり掴みかけていた幸せが、今壊されようとしている――。




 かつての遠野瑞枝はどん底にいた。

 原因は、当時の恋人であった。

 彼との出会いは八年前。都内の短大を卒業後、知人のツテで某アパレルメーカーに入社。ようやく社会人として慣れ始めた頃だった。

 六本木のクラブで彼と出会い、そのまま交際をスタートさせた。

 当初の彼は気さくで優しい性格に思えた。

 しかし、実はこの男、病的なまでに粗暴な二面性を隠し持っていた。

 元暴力団員で、些細ささいな事でブチ切れては傷害事件を起こし警察の厄介になっていた。

 そんな彼をよく知る者からは“今まで人を殺していないのは単なる偶然”と言われる始末である。

 組からも、手に負えないからと破門を言い渡されたというのだから余程である。

 投資で身を立てているという話であったが、それは真っ赤な嘘で、競馬やパチンコ、果ては違法賭博にまで手を伸ばす生粋のギャンブル中毒者だった。

 その本性があらわになり始めたのは、交際がスタートして半年後。彼と同棲し始めてからであった。

 男は遠野に暴力を振るい始めたのだ。

 始めは軽く小突かれる程度であったが、次第にそれは命の危機を感じるレベルにまでエスカレートしていった。

 一度、ほんのちょっとした事で口答えしたときなど、思い切り殴り倒され、顔面を踏みつけられた。

 お陰で遠野の顔面には、ボルトとチタンの板が未だに埋め込まれている。 

 彼とつき合って得られたものは、無数の傷跡と多額の借金だけであった。

 別れたい……何度もそう考えたが、遠野は恐怖という鎖に縛られてしまっていた。

 そして、そんな恐ろしい彼がまれに見せる優しさだけが、このときの彼女にとって、人生で唯一の希望となっていた。




 それは二〇一四年の初夏だった。

 突然、桃田愛美から電話があった。彼女と言葉を交わすのは高校を卒業して以来の事である。

 用件を尋ねると『美味うまい話がある』との事だった。

 正直に言えば、常に高圧的で小狡こずるい彼女とは関わりたくなかった。何よりどうしても、あの団地での一件を思い出してしまう。

 くくられた桐生保の紫色に浮腫むくんだ顔……。

 遠野にとってのトラウマだった。

 しかし、断るのが苦手な遠野は桃田の口車にまんまと乗せられ、某日に池袋のカフェでランチを共にする事となってしまった。

 通りに面する壁面がすべて硝子張りの明るいカフェ。そこに現れた桃田の容姿は、高校時代とほとんど変わらなかった。

 ただ、その身にまとったものはすべてが高価で大人びていて、ずいぶんと羽振りがよさそうに思えた。

 桃田は遠野の向かいに腰をおろすと注文を済ませ、旧交を暖めようとする間もなく話を切り出した。

 それは、あの団地のB222における死の法則であった。

 かのと生まれの者だけが死ぬ……だから、自分たちは無事で、早生まれの桐生だけが首を吊ったのだと。

 彼女はずっと、くだんの出来事について調べていた様だった。

 色々とオカルトに関連した話を聞かされた気がするが、遠野はよく覚えていなかった。

 なぜなら彼女はこのとき、だからどうしたのか……と、鼻白はなじろんだ気分で桃田の話を耳にしていたからだ。

 いきなり同級生が目の前で首を吊るという、不可解で背筋も凍る体験に筋道のある解釈がもたらされた事はいい。それに関しては、素直に感心したし納得もできた。

 しかし、それがいったい今更、何になるというのだろうか。

 そんな話を聞かせるためだけにわざわざ自分を呼び出したのかと、いきどおりに近い感情を覚えた。

 だが、桃田の話はここからが本題だった。

 彼女は「交際中の男をその団地へと連れていきたいから協力して欲しい」と言い出した。

 聞けば彼女の交際相手は、飲食店を営む当時四十三歳の辛生まれであるという。

 その彼は治療の難しい持病持ちであり、将来の為にという理由付け・・・・で、公正証書遺言を作らせたらしい。

 ゆえに、彼が死ねば桃田に少なくはない金が入ってくるとの事だった。

 当然ながら遠野は逡巡しゅんじゅんする。

 これは、殺人なのではないかと……。

 しかし、桃田は言ってのける。

「どうせ、そのうち病気で死ぬんだから、構わないでしょ?」 

 そのときの彼女の顔を遠野は未だに忘れられない。

 何一つ、感情の波を感じさせないまったくの平静。そのあまりにも普段の彼女と変わらない様子は、どんな想像上の怪物よりも恐ろしく思えた。

 しかし、そこで同時に、遠野は自分の恋人も辛生まれであった事に気がついてしまう。

 心の中の悪魔がささやく。

 遠野は悩んだ末「協力する代わりに自分にも協力して欲しい」と桃田に申し出た。

 桃田にとっても渡りに船であった。一本松団地の死の法則については真実であると確信はしてはいたが、実践して試してみたいと考えていたからだ。

 こうして二人は手を組んで、お互いの男の首を縊った。

 更に二〇一七年。

 再び桃田の交際相手である三十六歳の男の首を縊る。

 遠野はその分け前を受け取り、元カレのお陰でかさんでいた借金を完済した。そして会社を辞めて埼玉の郊外に、小さな店をオープンさせる。 

 輸入雑貨の販売と自家焙煎の珈琲を出すお洒落なお店だ。

 いくつかの幸運が重なり、店の経営はそれなりに上手くいっている。

 最近、好きな人もできた。取引先の三歳上の男で、想いはまだ告げていない。




 遠野が桃田につき従っている理由は、義理と恐怖の二つだけだった。

 あの地獄のような生活から抜け出すチャンスを与えてくれた恩。

 金の為にあっさりと男を縊る残虐性。

 きっと彼女に逆らえば思いもよらない方法で報復される。それぐらいの事は簡単にやってのける。

 人を人と思わない人でなし。それが桃田愛美であった。

 遠野は池袋のカフェで彼女と再開して以来、彼女を恐れ続けている。

 そして、ずっと手の中にあったスマホから目線を外そうとした瞬間だった。

「あ……同じなんだ・・・・・

 遠野は気がついてしまった。

 DV男が桃田に変わっただけで、何一つ昔と変わっていない。

 そして、自分も桃田の犠牲となった男たちと同じように搾取さくしゅされる側だったのだと。

 遠野は声をあげて笑った。

 そんな簡単な事に何年も気がつけなかった自分の馬鹿さ加減に。

 ここまで爆笑したのは久し振りの事だった。



 

 二〇二〇年五月六日。

「どうします? 桃田さんの行方、占ってみます?」

 ……と、九尾が問うと画面の向こうの畠野は、怯えた顔で首を横に振った。

『いいえ。その……最初は、せめてお別れを言いたかったんですけど……正直、もう関わりたくないです』

『まあ、それが一番でしょうね』と茅野。

『保険を解約したのなら、向こうにとっても貴方と関わる事はこれ以上、旨味がないでしょうし』

『君子危うきに近寄らずだよ!』

 桜井が偉そうに言った。

 すると畠野が深々と頭を下げる。

『兎も角、今日は皆さん、ありがとうございました……その、何か凄く色々と疲れたので、これで失礼させてもらいます』

「ええ。お気を落とさずに」

 その九尾の労りの言葉を聞くと、畠野は泣きそうな顔で笑い、

『相談料の方は後日指定の口座に……それでは』

 と、言い残してログアウトした。

 九尾は深々と溜め息を吐き、警察庁の穂村一樹に、この件を相談してみようと思った。

 危険性の高い心霊スポットと、それを利用して人を死に至らしめる女……心霊に関わる案件を扱う特殊な部署に所属している彼の領分だろう。

「それじゃ、わたしもそろそろ……」

 と、言い残し、九尾もログアウトしようとした瞬間だった。

『センセ、ちょっと』と桜井から待ったの声が掛かる。

「何? 梨沙ちゃん」

 すると桜井は悪い笑顔を浮かべながら言う。

『桃田さんが今どうしているのか気にならない? こっそり占ってみようよ』

『そうね。時間があるなら是非お願いしたいわ』

 茅野も続く。

 断ろうとしたが……それを知ったところで、この自粛期間中ではさしもの二人も余計な事はできないだろうと思い直す。

 それほど詳しく占う訳でないならば、構わないだろうと了承した。

 ライダー版のタロットカードを手に取りシャッフルする。

 そして、適当に三枚のカードを選び取った。すると結果は……。


 一枚目は“ムーン”のカード。不安と裏切りを意味する。

 二枚目は“死神デス”のカード。終わりと死を意味する。

 そして、三枚目は“タワー”のカードだった。災厄と崩壊を意味する。


『これは、また解りやすい結果がでたものね』

 茅野は皮肉めいた微笑を浮かべた。

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