【07】物理攻撃


 桜井と茅野の二人は駅前から路線バスに乗り、一本松地区のバス停で降車する。

 そこから、古びた民家が沿道に建ち並ぶ細い道を歩いた。

 すると道の右側に見えてくる。雑木林ぞうきばやしの生い茂る小高い丘が……。

 その頂上付近の木立の合間からは、クリーム色の給水塔や屋上とベランダの手すりがのぞいて見えた。

 茅野が指を差す。

「見えてきたわ。あれはA棟ね」

「へえ……」

 と、まるで、名所や史跡を観光するときの調子で、桜井は目線をあげる。

 やがて二人は、団地へと続く坂道の入り口の前までやってくる。

 坂道の入り口の両脇には、支柱が立っていたが、紐や鎖などで・・・・・・封鎖されている・・・・・・・訳ではなかった・・・・・・・

「さあ、行きましょう」

「らじゃー」

 二人は坂道を上ろうとした。すると、桜井が地面に落ちていたそれに気がつく。

「あれ? 何だろ。これ……」

 それは白いプラスチックのプレートだった。

 桜井はその板を手に取り裏返す。すると、そこには……。


 『立入禁止』


 と、記されていた。

 顔を見合わせる二人。

「見なかった事にしましょう」

「そだね」

 桜井はそのプレートを足元にそっと置き直す。

 そして唐突に、

「ああ何だろうこの坂道は登山道かなあ」

「ええそうね行ってみましょう」

 ……などと、誰が見ている訳でもないのに、棒読みで妙な小芝居を入れながら、二人は坂道を登り始めた。




 二人は団地を囲むフェンスの入り口の前に辿り着く。

 鉄格子の門扉は開いており、そのたもとに南京錠と鎖の束が落ちている。

 それを見おろしながら、茅野は鹿爪らしい顔で言う。

「鍵が掛かっていないという事は、入ってもいいようね」

「ウェルカムの準備は整っているね」

 二人は堂々と門を潜り抜け、左側のB棟へと向かう。

 そして、三つあるうちの真ん中の入り口の前へと辿り着く。

「この階段を登って二階の左側よ」

「……という事は、あの部屋か」

 と、桜井が見あげた瞬間だった。

「循、あれ!」

 茅野も桜井の声に反応して、視線をあげる。

 そこにはB222のベランダに立つ男の姿があった。

 ぼんやりとした眼差しの冴えない男で、ハイカー風の格好をしている。

 その男は、ベランダの手すりにぶらさがっていた黄色と黒の紐を手繰り寄せ始めた。そのまま紐の先の輪っかを頭に通して首にかける。

 茅野が叫ぶ。

「梨沙さん!」

 桜井は既に動き出していた。

 リュックを地面に落とし、枯れた雑草で覆われた花壇を風のように横切り、B122のベランダの手すりへとよじ登った。

 彼女が手すりの上に立ちあがったのと同時に、真上のB222のベランダから男が飛び降りる。

「うわっと……」

 桜井は男の両足を受け止めて掴み、持ちあげるように支える。

 男が足をばたつかせ暴れようとする。

「うわっ……うわっ……落ち着いて! やばい。落ちる、落ちる……」

 鍛えぬかれた体幹と絶妙なバランス感覚で、どうにかしのぐ桜井。

 しかし、足場は細く不安定である。

 化け物染みた身体能力を誇る桜井梨沙とはいえ、長くこの状態を維持する事は難しい。

「うっ。もう……駄目かも……」

 と、限界が訪れようとしたそのときであった。

「梨沙さん! お待たせ!」

 真上のB222のベランダから、息を切らせた茅野が顔をのぞかせた。

 その右手に握られているのはサバイバルナイフであった。

 茅野は手すりに結ばれた紐を立ち切る。

「ナイス、循!」

 桜井は男と一緒に花壇へと倒れ込んだ。受け身をしっかりと取り、すぐに立ちあがる。

 男は「ぐぎゃあああああ……」と獣染みた叫びをあげながら、枯れ草の上をのたうち回っている。

「どこか打ちつけたの?」

 桜井が駆け寄ろうとすると男は立ちあがる。そして紐の切れ端を首に巻きつけ、自分の首を締めようとした。

「これは正気ではないな」

 桜井は冷静な顔で呟くと、男の腹に拳をめり込ませた。

 どふぅ……と、肉を打ちつけたときの打撃音が鳴り、男の身体が九の字に曲がる。

「おげえええ……」

 男が四つん這いになって、吐瀉物としゃぶつを撒き散らし始める。

 満足げに頷く桜井。

 しばらくすると茅野が戻ってくる。

「どうなったのかしら?」

 彼女はB222からの帰還途中で男が拳を食らったところを見ていなかったようだ。

 桜井は端的に答える。

「腹パンした」

「何でなのよ」

 呆れた様子で苦笑する茅野。

 桜井が照れ臭そうに言った。

「いやほら。小学校のときも、パンチで何とかなったから」

 桜井は小学校五年生の頃に、狐狗狸こっくりさんに取りつかれた男子を自らの拳で正気に戻した事があった。

「そんなに毎回、上手く訳が……」

 などと言いながら、茅野は涼しい顔で四つん這いの男の上着のポケットを漁る。

 そして財布を取り出すと中に入っていた運転免許を確認して、再び元に戻した。

「そもそも、霊に取り憑かれた訳ではなく、普通に自殺しにきた人なのかもしれないわ。少なくとも彼が私たちのように肝試しをしに、この場所へ訪れたとは思えない。ほら。彼の背中のリュックを見て。梨沙さん」

 茅野の言いたい事が解らず小首を傾げる桜井。

「うん。リュックがどうかしたの?」

ぺしゃんこよ・・・・・・。何も入っていない。一見するとハイカー風の格好をしてはいるけど、これは不自然よ」

「確かに、そうだねえ……」

「恐らく地元民に自殺志願者であると怪しまれるのを防止する為に、ハイカーの振りをしているのではないかしら?」

「なるほど……」

 桜井は納得しつつ、投げ捨てたリュックを拾い、中から水筒を取り出した。カップへと中身をそそぐ。

 爽やかなミントの香りが、ふわりと冷えた空気の中に舞った。

 そこで男の嗚咽おえつがようやく治まる。四つん這いになったまま、首に巻きついた紐を取り、右手の甲で口元をぬぐった。

「大丈夫?」

 男は、その声に反応して顔をあげる。

 そこへ桜井がキャップにそそがれたミントティーを差し出す。

「ミントティーだよ。すっとするはず」

 男はきょとんとした表情で言った。

「えっと……君たちは誰?」

 茅野が桜井に耳打ちをする。

「取り合えず、この人が幽霊に取り憑かれていた訳じゃなかったのなら、色々と面倒臭い事になるわ。勢いで誤魔化しましょう」

「そだね。いきなり殴っちゃったし……」

 桜井は茅野の提案を了承し頷いた。

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