【05】厄介なモノ
市営一本松団地は、五階建ての階段室型である。
階段室型とは、複数ある共用階段の一つを各フロアの隣り合った二戸が利用するタイプの集合住宅を指す。
共用階段同士を行き来する通路や、エレベーターは基本的に存在しない。一九六十年代付近から建設された古い団地によくみられる様式であった。
畠野はB棟の三つある共用階段の入り口の真ん中を潜り抜ける。
この階段を登って二階にある右側の部屋が目的地のB222となる。
入ってすぐの右側の壁に、錆びついてひしゃげた郵便受けが並んでおり、奥の階段横のスペースには古いスノータイヤが積まれていた。
入り口近くの足元には落ち葉や枯れ枝が散乱しており、外から流れ込んだ雨水が大きな水溜まりを作っていた。
中の空気は薄暗くひんやりとして、湿っている。
畠野は水溜まりを爪先立ちで渡り、左側にある階段を登った。
するとすぐに踊り場があり、その左右に扉があった。
左の扉には『B121』とあり、右は『B122』となっている。
その踊り場から折り返した二階への階段を登る。
そうして何もない踊り場を一つ通過して『B222』の前に辿り着く。
ここにくるまでの壁にも、沢山の落書きがなされていたが『B222』の周りは特に酷かった。
それも“呪”や“死”といった不吉な文字ばかりである。
畠野は、ごくりと唾を飲み込み『B222』のドアノブに手をかけた。
『やっぱり鍵は開いてました。……それで、中に入ったのですが』
そこで画面の向こうの畠野は言葉を詰まらせた。
どうやら、記憶の糸を手繰り寄せている様子である。
九尾は特に急かす事なく彼の言葉を辛抱強く待った。
『それから、リビングへ向かって……中は凄く散らかっていたのを覚えています。それで、割れた掃き出し窓を潜り抜けて……そこで、ふとベランダの手すりに紐が結んであるのに気がついたんです』
「紐?」
九尾は眉をひそめて首を傾げる。
『黄色と黒のストライプの……よくホームセンターで売っているような』
「ああ……」
『紐を持ちあげてみると、その……先端が丸い輪っかになっていて』
「
九尾の問いかけに、畠野は顔をしかめて頷く。
『そうです。それでちょっとびっくりして、わっ……と、掴んでいた紐をすぐに放しました。すると……』
また畠野の言葉が止まる。
『何と言いますか……その……』
「何か言いにくい事でもあったのですか?」
畠野は首を横に振り乱し、泣き笑いのような顔をする。
『覚えていないんです』
「覚えて……いない?」
『はい。そこから、ちょっと記憶が飛んでいて』
九尾は口を挟まずに、辛抱強く彼の言葉を待った。
『次に気がついたときは、なぜか僕はベランダの真下の花壇にいました』
「花壇……? 屋外って事ですか?」
『はい。四つん這いになって、肩とか背中が痛くて、気持ち悪くて……その……吐き戻しておりまして。それで、胃の中のものを全部出しきると、突然、頭の上から声がして……』
「声ですか。どんな声です?」
『若い女性の声でした。“大丈夫?”と……』
霊が現れたに違いない。九尾は
『そして、びっくりして顔をあげると、いつの間にか、二人の女の子が四つん這いになった僕を見おろしていました』
「ん……?」
九尾は眉間にしわを寄せる。
『それで、その女の子の片方が、くまさんのイラストの水筒を取り出して、僕に一杯差し出してきたのです』
「んんん……?」
九尾は両腕を組み合わせて唸る。
『ミントティーでした。凄くすっきりしたのを覚えています。それから僕は……』
「ちょっ、ちょっ……ちょっと待って!」
九尾は両手を激しく振り乱し、畠野の語りを制止する。
「あの……その女の子たちって、どんな子たちでした?」
『あー……』
画面の向こうの畠野が、目線を上にあげて記憶を探る。
『ミントティーをくれた方は、小柄で栗色の髪を後ろで縛っていました。明るい色のウインドブレーカーを着ていて……もう一人の方は、背が高くて長い黒髪で、ミリタリーコートを羽織っていましたね。どっちの子もアイドルグループにいそうなぐらい可愛かったです』
「……おおう」
九尾は顔をしかめて頭を抱えた。
今度は畠野が
『どうかされたんですか先生……』
「いや、その……」と、言い
『もしや、あの少女たちは幽霊だったとか……』
「いやいやいやいや……そうではありませんが」
ある意味で幽霊より質の悪い者たちです……と、心の中でつけ加える。
「そういえば、聞くのを忘れていましたが」
『はい。何でしょう』
「畠野さんのご出身の県は……」
その質問の答えは、
九尾はもう一度、何て事だと頭を抱えた。
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