【06】迷い家


 石段は弾力を感じるほどの分厚い苔に覆われていた。けっこうな急角度である。

 桜井と茅野は黙々と登り続けた。

「そういえばさあ……」

「何かしら?」

「循もけっこう体力ついたよね」

 桜井はそう言いながら、昨年の五月に行われた心霊スポット探訪の記念すべき第一回目を思い出す。

 あのときの茅野は、自転車で坂道を登った際に息も絶え絶えになっていた。

 しかし、今の茅野は、ほんの少しだけ呼吸を乱している程度だった。

「ええ。確かに体力がついたっていう自覚はあるわ」

 茅野は得意気な顔で胸を張る。

「数々の心霊スポット探訪が、私の足腰を強く鍛えたのよ」

 すると桜井は「うむむ……」とうつむいて何やら考え込む。

 しばしの沈黙――




「……で、急に黙り混んで、どうしたのかしら?」

 しばらく見守ったあと、怪訝けげんに思った茅野がたずねると、桜井は眉間にしわを寄せる。

「心霊スポットエクササイズっていうのを考えようとしたけど、途中で訳が解らなくなった」

「梨沙さん、貴女のその無駄な発想力とチャレンジ精神には敬意を評するわ」

「それは、どうも」

 ……などと、知能指数の低そうな会話をしているうちに頂上が見えてくる。

 そして階段を登りきった二人の視界に映り込んだのは、立派な日本家屋の屋敷であった。

 硝子張りの窓があり、昭和初期くらいの豪農の家といった佇まいである。

 階段のところから真っ直ぐと延びた敷石の先には、開かれた玄関があり、左右を見渡せば見事な庭園が広がっている。

 苔むした庭石や石灯籠。そして、庭木には桜、百日紅さるすべり、楓、椿などがあった。右側の大きな池では、鯉か何かの魚が跳ねる音が聞こえた。

 そして、玄関や視界に入るすべての窓からは煌々こうこうとした明かりが漏れている。

 奇妙だったのは桜や百日紅、椿の花がすべて満開に咲き誇り、楓の葉が紅く色づいている事だ。これらは同じ季節に見る事はできない。

 茅野はその庭先を眺めて苦笑する。

「これは、いよいよおかしいわね」

「最初からいよいよおかしかった気もするけど、それはさておき……天狗さんの家なのかな? ここ」

「さあ。まだ何とも言えないけれど、ここは迷い家なのかもしれないわ」

「まよい……が?」

 桜井が首を傾げる。すると何時も通り、茅野の解説が始まった。

「東北地方の伝承で、旅人が山中にある立派な屋敷に迷い込むんだけど……」

「まさに今のあたしたちだね」

「そうね。……その屋敷の庭には花が咲き乱れ、たくさんの家畜が飼われていた。それで、綺麗なお椀の並べられた部屋や、湯気の吹いた鉄瓶が火鉢にかけられたままの座敷があったが、人の姿はまったくない……」


 そこで、旅人は以前に耳にした事のある迷い家の伝承を思い出す。

 その山中にある不思議な家から何らかの器物を持ち帰ると幸運が訪れるのだという。

 しかし、旅人は怖くなって、何も取らずに家へと帰ってしまう。

 それから、しばらくして旅人が川で洗い物をしていると、一膳の綺麗なお椀が流れてくる。

 それはまさに、あの迷い家にあった物だったのだという――


「……取り合えず旅人はそのお椀を拾った訳だけれど、それでご飯を食べる気にもなれず、米びつの米をすくう入れ物にそのお椀を使ったらしいの。すると、なぜか米びつの米が尽きる事がなくなったらしいわ」

「ライスおかわり無料になったんだね?」

「そういう事。その旅人は財をなし幸せになったそうよ」

「ふうん」

「……と、こんな話なのだけれど」

「ライスおかわり無料は、ちょっと魅力的だね」

「そうね。私だったらバケツ一杯にドクターペッパーをあけて、それをすくう入れ物にするけれど」

「循らしいね」

「まあ、そんな訳で予習が終わったところで、そろそろ中に入ってみましょうか」

「うん」

 ……と、二人は敷石を渡り、玄関の鴨居を潜り抜けた。

 三和土たたきには、桐の棚や壺、木製の外套掛がいとうかけや陶器の傘立て……様々な古めかしい調度品が並んでいた。

 更に足元には沢山の履き物が散らばっている。

 革靴、スニーカー、ブーツ、サンダル、ゴム長靴……下駄や草鞋わらじなどもあった。

 そして、家の奥から微かに話し声や笑い声が聞こえてくる。

「誰かいるみたいだね……」

 桜井が耳をすましながら言った。茅野は神妙な顔で頷く。

「人の気配があるっていう事は、迷い家ではない……か」

 少しだけ拍子抜けした様子の二人。

 そこで茅野は、ある物に気がつく。

 それは三和土の内側の隅にあった外套掛がいとうかけの木製スタンドだった。

 そこには様々なコートや雨合羽あまがっぱなどがぶらさがっているのだが……。

「どうしたの……? 循」

 茅野は桜井の言葉に何も答えず、外套掛けの方に向かい、それを手に取った。

 桜井も表情を凍りつかせる。

 茅野の手の中にあったのは赤いキャップだった。

 全体的に色褪いろあせており、額には“Brother”と刺繍ししゅうされている。

「それって……循」

「こんなセンスの悪い帽子が、そうそうあってたまるものですか」

 それは、二〇〇四年に例のスレを立てた“ブラザー”の物と思われる帽子であった。

 良く見ると後頭部の辺りに赤黒い飛沫ひまつが三粒だけついている。

「これ、血かなあ?」

「そう見えるけれど」

 ……と、そこで、正面へと延びた廊下の奥から、パタパタと足音が聞こえた。

 二人は視線をそちらに向ける。

「あらあら。お客さんでしたか。ごめんなさいね。お待たせして」

 そう言って、現れたのは和服の袖を襷掛たすきがけで捲りあげた女だった。

 笑顔であったが、どこか不自然な表情で不気味である。

「さあさ、履き物をお脱ぎになって、二階へ。皆さん、お待ちしてますよ?」

 桜井と茅野は顔を見合わせ、頷き合うと言う通りに靴を脱いだ。

「それでは、ご案内しますね」

 女がくるりと二人に背を向けて、正面右側の階段の方へと向かう。

 その後ろ姿を見ながら、茅野はぼそりと呟いた。

「あの人の襟元えりもと……」

「ん? どうしたの?」

「ううん。まだ何とも言えないわ。取り合えず、ついていってみましょう」

「うん」

 桜井と茅野は、女の後を追った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る