【05】In Other Words


 豊治の赤いリーフは山道を延々と走り続ける。もう深夜の二時になろうとしていた。

 それにしても……と、豊治はいぶかしむ。町の明かりがいつまでも見えてこない。他の車とも出くわさない。街灯もない。

 いくら深夜だからといって異常である。

 やはり、おかしい。

 何か普通ではない事が起こっている。しかし、それが何なのか解らない。

 もしかすると、自分はずっと同じ場所をグルグルと、さ迷っているのかもしれない。

 忌々しい霧のお陰で豊治は苛立ち、再びハンドルを両手で叩いた。

 すると、その瞬間だった。

 カーステレオから、ぷつ……ぷつ……と音が鳴り、勝手に歌が流れ始めた。

 それは五十年代に代表されるジャズのスタンダードナンバーだった。

 あの水野を殺す直前に流れ始めた曲である。これまでに、古今東西の様々なアーティストがカバーしてきた名曲だ。

 豊治は軽やかに弾むようなその曲に耳を傾けながら、水野舞香の事を思い出し舌打ちをした。




 豊治英一の妻である里美は容姿に優れ、性格も控えめなよく気の利く女性であった。

 豊治と彼女の出会いは、彼が社会人としてようやく馴れ始めた頃、同僚に無理やり連れて行かれた合コンだった。

 おしとやかな外見で口数が少なく、そうした場が似つかわしくない里美であったが、あとで聞いた話によれば、彼女もまた友人に数合わせで無理やり連れてこられたのだという。

 豊治と彼女の音楽の趣味は、五十年代から七十年代近辺のジャズやオールディズと、一致していた。

 そのお陰で話が弾み、それが二人の関係を後押しする大きな要因となった。

 デートは大抵行き着けのジャズバーでゆったりとくつろいでからホテルへ……というのがいつもの流れだった。

 結婚後、彼女はすぐに仕事を辞め、専業主婦として豊治を支えた。

 料理が得意で、レシピサイトをつぶさに見ては、よく色々な物を作ってくれた。

 中には聞いた事のないような海外の料理もあった。どれも美味しかった。

 帰りが遅くなっても不満を漏らす事はなく、家事に手を抜くような事もしなかった。

 それは娘の英美ひでみが産まれてからも一緒で、結婚から十五年、彼女はよき妻であり、よき母であり続けた。

 喧嘩もほとんどした覚えはない。

 何の不満もなかったはずなのに、なぜあんな女なんかに……。

 よくできた理想の妻である里美。

 水野はそれとは真逆の女だった。

 奔放ほんぽうで下品……今になって思えば、顔も全然好みではなかったし、話も趣味もまったく合わなかった。

 特に音楽の趣味は壊滅的に合っていなかった。

 彼女は豊治がもっとも好まないタイプの曲――がちゃがちゃと五月蝿うるさいダンスミュージックやアイドルソングなどの、今どきの曲ばかりを聞いていた。

 そして、豊治が好きな曲名をあげても、一つとして知らないらしく、必ず首を横に振った。

 唯一の取り柄は、ふくよかで抱きごこちのよい身体であったが、里美の若い頃と比べるとずいぶんとだらしない。

 なぜ、あんなくだらない女の誘惑に自分は乗ってしまったのか……。

 豊治はハンドルを握りながら考え抜き、一つの結論に辿り着いた。

 それは、まさしく、あの水野舞香がくだらない女・・・・・・だったからだ。

 雑に扱っても心が痛まない女。

 浮気相手として利用するにはちょうどよいレベルの女。

 思春期のときに、好きな子と同じタイプのヌードモデルやAV女優では欲情できなかったあの感覚。

 好きな子そのものに劣情を抱いた時に感じる罪悪感。

 だから思春期のときの豊治英一が、妄想の中で醜い欲望をぶちまける対象は、自分の好みとはまったく違うタイプだった。

 水野舞香に感じたのは、そうした感情の延長線上にあるものだ。

 言い換えるなら・・・・・・・、ちょっと、手を伸ばせば届くところにあるポルノ。

 ……豊治にとっての水野は、そんな程度の存在でしかなかったのだ。

 だから、腹が立った。

 怒りに突き動かされ、殺してしまった。

 どうでもいいと思っていたポルノが、まるで勝ち誇ったような微笑を浮かべて自分を見下す。

 そんな女ごときに・・・・・・・・わずらわされている。それを自覚した時に殺意が芽生えた。

 だから自分は水野舞香を殺したのだと、豊治は理解した。

「畜生……俺は悪くない……」

 水野との関係は浮気ですらない。豊治はそう思い込もうとしていた。

 言い換えるなら・・・・・・・・、単なる排泄行為はいせつこうい

 オスはより多くの子孫を残す為に、より多くのメスを求める。そういう風にできている。

 だから仕方がない。定期的に発散しなければならない。

 悪いのはポルノの分際で、調子に乗ったあの女の方だ。

「そうだ。俺は悪くない……」

 豊治が自己正当化を済ませると同時に、曲が終わりに差しかかる。

 綺麗なラブソングだった。

 思いを素直に伝えられない。別な言葉に置き換えないと口に出せない……しかし、その歌詞はいつしか情熱的でストレートな愛の告白に移り変わってゆく。

 最後のフレーズ……そして、アウトロが消えた瞬間だった。

 左側の山肌の木々の合間に瓦屋根と、ぼんやりとした明かりが見えてきた。

 しばらくすると道の右側に、赤い鳥居があった。

 豊治はウィンカーを出して車を寄せた。再びサイドブレーキを引く。

 赤い鳥居の奥には、山肌の木立を割って延びる石段が上まで続いていた。

 豊治は運転席の扉を開けて外に出た。

 再びジャケットのポケットからスマホを取りだし画面に指を走らせる。

 地図アプリの現在地のマーカーは、やはり何もない山中にあった。近くに建造物らしきものは表示されていない。

 豊治は石段を見あげる。

 霧のベールに覆われた闇の向こうに、ぼんやりと明かりが灯っている。

 明かりがあるという事は誰かがいるかもしれない。

 車のエンジンを切ると、豊治はその石段を登り始めた。

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