【04】霧


「くっそ……何だ。この霧は……」

 サーチライトの光が作りあげた闇の裂け目に、白い霧が大量に流れ込む。フロント硝子が曇り出して、ワイパーが作動する。

 きゅっ、きゅっ、きゅっ……という音だけが車内に響き渡っていた。

 そこで豊治は、ずっと聞こえていた渓流の音が、いつの間にか止んでいる事に気がつく。

「……ここ、どこだ?」

 左側には崖。

 右側には深い森。道はその崖に沿って左へ湾曲わんきょくしながら霧の向こうへと延びている。

 カーナビを見た。

 車の現在位置の目印は、車道を大きく外れた場所にあった。

 そして、突然……。


『目的地まで四十九キロ……目て……ち……ま……四……キロ……』


 カーナビが喋り出す。

「何だよ……クソ……壊れたのか!?」


『目的地……ももも目て……もぉくぅてぇきぃちぃいいいいいいい……ちちちちちちちちちちちいいいちいちいちいちいちいいち……』


 豊治は舌を打ちながらカーナビの電源を落とそうとした。

 すると……。


『えいいちさん』


 ぷつりと音声が途絶える。カーナビの電源が落ちた。

 豊治は思わずブレーキを踏む。

 最後の声。

 水野は逢瀬おうせの時は、豊治の事を下の名前である“英一さん”と呼んでいた。

 こめかみから汗が滴る。

 不意に視線を感じたような気がして、豊治は辺りを見渡す。

 闇と霧。そして、静寂。

 ワイパーの動く音以外、何も聞こえない。

 きゅっ……きゅっ……きゅっ……。

「クソっ、クソ、何だっていうんだよ……偶然だ。偶々たまたまそう聞こえただけだ」

 豊治は道の端に車を寄せてサイドブレーキを引いた。ジャケットの内ポケットから、セブンスターと百円ライターを取り出す。

 残りは四本。そのうちの一本をくわえて、百円ライターで火をつけようとした。

 するとフロントガラスの向こう側だった。霧のベールの中に人影が浮かんだ。

 豊治はくわえた煙草を元に戻し、ダッシュボードの上に、百円ライターと一緒に置いた。

 車を降りる。

「すいませーん。ここ、どこか解りますか?」

 影は答えない。ぴくりとも動かない。

「すいませーん……」

 やはり返事はない。

 豊治は苛立たしげに顔をしかめ、影の方へと近づく。

 しかし……。

「何だよ、クソっ」

 それは人ではなく、道の脇に立つ枯れ木だった。

 不気味にふしくれて捻れた枝。

 病気のようなこぶがいくつもはえた幹。その陰影が人の顔のように見える。

「クソがっ……」 

 豊治はその木の幹を蹴りつけ、車へと戻った。運転席のシートに腰をうずめて、再びダッシュボードの上のライターとセブンスターを手に取る。

 一本くわえると、火をつけた。

 煙を吸い込む。

 すると、その瞬間、たんがからまり、激しくせ返ってしまう。豊治は嘔吐えずいた。

「……おぇ……」

 冬の乾燥している時期はいつも喉が荒れる。それに加え、ストレスが増えるとたまにこうなる。

 それでも豊治は、煙草をやめる事ができなかった。まるで水野との浮気のように……。

 ともあれ、慌ててドリンクホルダーに差しっぱなしだったミネラルウォーターのペットボトルを手に取る。

 急いでキャップを開けて、口の中をすすぐ。そして、運転席の扉を開けて地面に向かって吐き出す。

 喉にしびれるような感覚が残っており、再びペットボトルをあおる。

「畜生……とっとと、あのバカ女を埋めて帰らなければ……」

 豊治は空になったペットボトルを投げ捨てる。運転席の扉を閉めた。

 車内の時計を見ると零時四十二分だった。

 豊治は窓の外を見渡す。

 時刻はもうすぐ丑三うしみつつ刻だ。しかも、この深い霧。

 この付近の森の奥で、死体を埋めてしまうか……と、そう思いかけた時、頭を過ったのは、あの橋で出くわした奇妙な二人組の少女だった。

 普通ならば、誰かと出くわす心配などするだけ無駄だろう。こんな霧の夜に、こんなところを出歩く者などいる訳がない。

 しかし、豊治は、現にあの二人の少女と出会ってしまっている。

 誰かが通りかかり、路肩に停車したリーフを不審に思うかもしれない。霧の向こうから響き渡る、土を掘る音の正体を確かめにやってくるかもしれない。

「……糞」

 疑念と不安にかられてしまった豊治は、結局この場所を立ち去る事にした。

 もっと誰もこないような山奥へ……。

 スマホで現在位置を確認しようとするが、地図アプリを開いてみても結局よく解らない。

 現在地を示すマーカーは何もない山の中を指している。

「何だこれは……不具合か?」

 豊治は水野を殺して以降、何度目になるか解らない溜め息を吐いて、ポケットの中にスマホをしまう。

 何かがおかしい。

 再びサイドブレーキを倒し、アクセルを踏んで車を走らせる事にした。




 濃い霧が冷えた空気の中でゆっくりと流れ、渦を巻いていた。

 桜井と茅野は霧にまみれた夜闇を歩き続ける。

 車道の右側には山肌に広がる深い森。左側には白いガードレールが連なっている。その向こう側は谷底のようだ。

 しかし渓流の音は聞こえない。

 桜井の放り投げたサイリウムがガードレールに当たり、かつん、と音を立てて地面に落ちる。

「それにしても、何にもないねえ……」

 紙袋の中のサイリウムはずいぶんと数を減らしていた。

 茅野は時計を確認したあと立ち止まり、桜井に問うた。

「梨沙さん……今サイリウムは何本かしら?」

「ちょっと待って」と、桜井も立ち止まり、紙袋の中を確認する。

「あと十七本だよ」 

「……という事は、これまでに使ったサイリウムは百八十三本。五十歩おきに一本だから九千百五十歩。梨沙さんの身長から歩幅は一歩あたりおよそ六十八センチ……だいたい、六千二百メートル程度ね。時刻は一時三十分過ぎ。特におかしなペースでもないわ」

「ふうん」

 再び歩き出す二人。

「天狗さん、いないねえ……」

「それは、天狗だって、自分を倒しにきた人とは会いたくないんじゃないかしら?」

「でも、義経さんは、天狗に武術を習ったんじゃなかった? あたしも稽古をつけてもらいたいよ」

「あら、よく知っているわね。そんな事」

「こういうのは知ってる」

 桜井は得意気な顔で胸を張る。茅野はくすりと笑い、

「まあ、取り合えず、そのサイリウムが無くなったら引き返して橋まで戻りましょう」

「らじゃー」 

 と、桜井が答えたところで道の右側の山肌に大きな何かの影と、ぼんやりした明かりが見えてくる。

「循、あれ!」

 木々の合間から瓦屋根が見える。

 そして、数メートル先の沿道に大きな朱塗しゅぬりの鳥居があった。そこから石段が続いている。

「何だろ。神社かな?」

「まだ何とも言えないわ」

 と、思案顔で階段を見あげる茅野。

「……ただ、一つ言える事は……」

「スポットに入らずんば心霊を得ず」

「その通りよ。梨沙さん」

 桜井と茅野は鳥居の前で顔を見合わせると、その木立の間を割って延びる石段を登った。 

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