【32】帰還


 桜井が両手を天に突きあげ、背を伸ばす。

「いやー、無事に終わったねえ」

 茅野が右手の人差し指を立てて眉を釣りあげる。 

「駄目よ、梨沙さん。遠足は家に帰るまでが遠足なんだから」

「遠足て……」

 九尾は苦笑した。

 そんな訳で三人は、井戸から出ると、鐘突堂かねつきどうの石垣に並んで座り、持参したお弁当を食べる事にした。

 九尾は筋子のおにぎりの包装をむきながら、辺りを見渡す。

 薄暗い境内。

 倒壊した本堂や庫裏くりの瓦礫の合間など、いたるところに亡霊が立っている。

 しかし、最初は禍々しく感じられたその風景が、今はちょっとだけマシなものに思えていた。

「……で、結局、どゆことなの? あの手記に書かれていた事は、全部、嘘なの?」

 桜井がモシャモシャと咀嚼そしゃくしていたてりやきハンバーガーを、ペットボトルのほうじ茶で流し込んでから話を切り出した。

 同じくサンドウイッチを食べながら甘い缶珈琲のリングプルを引いた茅野が、目線を遠くにやりながら口を開く。

「今となっては、私の推理がどれくらい当たっているのか確かめようがないけれど……」

「それでもいいよ。言って?」

 桜井に促され、茅野は語り始める。

「あの手記に書かれていた事は、概ね事実だったのだと思うわ。……目羅博士は友人の箜芒誠司にわれ、その妹の華枝さんを救う為に、この島へとやってきた。ここまでは手記の通り。ただ、その動機は、箜芒誠司や華枝さんを救う為なんかじゃない。心霊の存在を否定する事。それにより、妹の狂気と死を憑き物のせいした憎き父親を己の中で否定する事だった」

「ふうん……」

 と、いつものぼんやりとした相づちを打って、桜井は早々にてりやきハンバーガーを口の中に詰め込む。次にチーズバーガーを食べ始めた。

 茅野の話は、なおも続く。

「……ともあれ、現実はそう上手くはいかなかった。その辺りの心理を本物の箜芒甕子にもてあそばれ、霊能者の川村千鶴の存在もあり、“心霊などまやかしである”という自らの信念が大きく揺らいでしまった。間違っていたのは自分かもしれない……そして、実際に妹が受けた仕打ちの是非ぜひはさておき、彼が否定しようとしていた父親の方が正しかったのかもしれないという疑念が大きくふくらんだ時、そこで彼は・・・・・狂気に取り・・・・・憑かれた・・・・

「あの手記には、父親が妹に行った仕打ちを告発する意図もあったのでしょうね」

 その九尾の言葉を首肯する茅野。

「きっと、そうね。……それで、恐らく目羅博士はあの手記を書く前に、箜芒邸の台所へと向かった」

「何で?」と首を傾げる桜井。

 九尾にもさっぱり解らない。

 茅野が得意気に右手の人差し指を立てる。

それは・・・塩を盛る為よ・・・・・・

「塩……。あっ!」

 桜井が声をあげる。九尾も茅野が何を言いたいのか察する。

「そうよ。あの盛り塩……後に警察が土蔵の座敷牢で発見した白い盛り塩は、目羅博士が己の手記との辻褄つじつまを合わせる為に自ら盛った物なのよ」

「ああー。じゃあ、という事は、床板から見つかった少量の黒い塩っていうのは」

心霊現象で・・・・・黒く変色した・・・・・・盛り塩の残りね・・・・・・・。目羅博士は綺麗に掃除したつもりだったけれど、板の隙間に入った物が少量だけ残ってしまった。そして博士は黒く変色した塩を捨てた後、台所から持ってきた塩で新しい盛り塩を作った」

「それから、手記を書きあげて、川村さんが悪霊祓いの儀式を行っている砂浜へ向かったんだね?」

「そうよ、梨沙さん。そして、儀式が終わったところを見計らい、箜芒甕子の振りをして登場したの」

「でも、一つ解らないのは……」

 そこで九尾はずっと疑問に感じていた事を口にする。

「博士は川村さんを撃ち殺し、霊能力が無意味であった事を島民に知らしめようとした。そして“普遍的無意識に住まう影の人格”だなんて大袈裟な存在を作りあげ、自らが箜芒甕子に太刀打ちできなかった言い訳にもした……そこまでは解るけど」

「何かしら?」

「じゃあ結局、一九四九年の事件は? あれはいったい……」

 川村千鶴の悪霊祓いが成功していたのなら、あの三十名以上の犠牲者を出した暴動はなぜ起こったのか。

「人が霊として存在するようになるには死後すぐにという訳にはいかないわ。川村千鶴の除霊が成功していたのなら、あのときの夜鳥島には箜芒甕子も目羅博士の霊も存在していなかったはず」

「でもまれに死後すぐに霊になれる人もいるのでしょう?」

「確かにそうだけど……」

 以前、茅野に“人は死後どれくらいで霊になるのか”という質問を受けた時には確かにそう答えた。例外もあると……。

「まさか……」

 目を見開く九尾に、茅野は頷き返す。

「その例外が起こったのか、もしくは……本当に集団ヒステリーだったのかもしれないわね。今となっては確かめようがないけれど、どちらでも構わないわ」

 九尾には、どちらかといえば後者のように思えた。

 “厄流し”という陰惨いんさんな生け贄の儀式だけではない。あの経帷子きょうかたびらの霊に触れた時に視た過去の光景。

 夜鳥島は、あんな事がずっと繰り返されてきたのだ。

 そんな魔境で暮らす住民の心に育まれてきた狂気の種子が、川村千鶴の死によって一気に芽吹めぶいたのではないだろうか。

 それこそ、目羅博士が提唱ていしょうしようとしていた夜鳥島特有の文化に根差した精神疾患。

 その発病のトリガーを引いたのが、彼自身だというのなら、それは皮肉以外の何ものでもない。

 そこで九尾は、ふと新たに疑問を抱く。

「ねえ、循ちゃん」 

「何かしら?」

「なぜ、博士は自殺したのかしら? 罪の意識から? でも博士は、霊の存在なんか信じていなかった。……という事は、当然だけど死後に悪霊となれると信じてはいなかった。箜芒甕子憑きが精神疾患であると捏造ねつぞうしたかったのなら、そこで死を選ぶのはおかしくない? 生きたまま箜芒甕子の振りを続けそうなものだけど……」

 茅野はさして悩む風でもなく即答する。

「それは多分、確かめたかった・・・・・・・んじゃないかしら」

「確かめたかった……?」

 桜井は問うた。

 すると茅野が右手の人差し指を立てる。

「本当に霊は存在するのか。自分は間違っていたのか。自ら死んで確めたのよ。目羅博士は」

「そんな……」

 狂っている。

 九尾は率直にそう思った。

 そして今なら理解できた。

 箜芒甕子の振りをした目羅鏡太郎の霊がなぜ、あれほどまでに揺らいでいたのかを……。

 それは“箜芒甕子”という名前を名乗っていたから……だけではない。

 彼は死んで・・・・・悪霊となってもなお・・・・・・・・・その存在を・・・・・信じずに否定し続け・・・・・・・・・ていたのだろう・・・・・・・

 自分が死んだ事を信じない霊は、珍しくない。

 しかし、自分が死んだ事を理解しつつ、まだ霊の存在を信じない霊など、九尾は聞いた事もなかった。

 自己を否定し続けながら存在するという不安定な状態が、あの相性の揺らぎを生じさせていたのだ。

 まさに前代未聞の悪霊……。

 桜井が、ごきゅり、と、ほうじ茶を一口飲んで喉を鳴らす。そして、何気ない調子で呟いた。


「博士は科学の力で心霊に挑んで、負けちゃったんだねえ……」


 その瞬間、海から吹いた潮風が境内の木立をざわりと揺らした。



 ……このあと、三人は無事に港まで辿り着き、迎えの船に乗って加太へと生還したのだった。

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