【21】聖霊


 世花は箜芒邸の門を抜け出し坂道を降る。

 負傷した右足を引きずりながら、歩くのと、そう変わらないスピードで……。

 その光景を、草むらから、木の陰から、虚ろな目をした亡霊たちがじっと眺めている。

 後ろからはわらい声が聞こえる。ちょうど坂の上にある箜芒邸の表門から、九尾が姿を現したところだった。

「無駄だ。その足で、この狭い島のどこへ逃げる?」

 九尾天全は両手を広げ、悠然と坂道を降る。

 なぶるようにゆっくりと歩みを進める。

「恵麻……恵麻……ごめん、ごめん……」

 眼窩がんかから溢れ出た涙が頬を伝う。

 無力。無能。役立たず……。

 唯一秀でた霊能力を持ってしても、なす術なし。

 できる事なら消え去ってしまいたかった。

 それでも耐え難い恐怖によって突き動かされ、何もできずに惨めに敗走する自分が浅ましく、とても薄汚く思え、世花は気が狂ってしまいそうだった。

 どのみち元々体力のある方ではない。このまま助けがくるまで逃げ切れる訳がない。

 そもそも、助けがきたとして、どうするのか……。

 高確率で二次被害が起こるだろう。

 救援には、少なくともこの手の怪異に通じている者……木乃伊ミイラにならない木乃伊取りでなくてはならない。

 ……と、そこで世花は思い出す。

 病床の父から聞いた話を。


 『もしも、お前らが自らの手に終えない怪異に遭遇したら、これから教えるところに連絡しろ』


 “警察庁の加藤かとう


 どうやら警察にも、そういった怪異を専門にする部門があるらしい。

 この島は携帯の電波が届かない。助けがきたら、何とかその加藤という人物に連絡を取ってもらう以外にない。

 それが最後に残された唯一の希望。

 そして、今の自分が選び取れる最善の方策。

 しかし、その為にはどうにか時間を稼がなければならない。

 どうやって時間を稼げばよいというのか。結局は八方塞がりだ。羽ばたきかけた思考が奈落へと再び落ちる。世花の心が色濃い絶望に包まれ始める。

 そのまま坂道を降ると、ほこらのある三叉路さんさろに辿りついた。そこで世花は路面の凹凸おうとつに爪先を引っ掛けて、転倒してしまう。

 すぐに立ちあがろうと四肢を突く。嗤い声が後ろから迫る。

 右足の痛みに顔をしかめ、どうにか立ちあがった。

 次の瞬間だった。

「貴様……」

 背後から迫る嗤い声と足音が止まった。世花は振り返る。

 すると、笠を被り金剛杖を携えた白装束の修験者しゅげんじゃが追いすがる九尾の前に立ちはだかっていた。

 その者は金色に輝き、杖の先を立ち止まった九尾の方へと掲げている。

 かなり力の強い霊体……しかし、邪悪なものは感じない。

 その修験者が前を向いたまま、世花を追い払うように後ろへと回した左手の指先をはためかせた。

 世花はゆっくりと頷いて再び右足を引きずりながら進み始める。できる限り遠くを目指して……。




 頭上の夜空には、山深い森の木立のような黒雲が月光に照らされていた。

 世花は腰を折り、足元に向かって荒い息を吐きながら、乱れた呼吸を整える。

 一心不乱に脚を動かし続けた彼女は、いつの間にか島の東側にある防波堤の端に辿り着いていた。

 寄せては返す波と、吹き荒ぶ潮風の音。それらと重なって繰り返されていた自らの呼吸音が、だんだん落ち着いてゆく。

 世花が顔をあげると、いつの間にか防波堤の先にあの金色に輝く修験者の姿があった。

 目深に被った笠のお陰で、その面差しはうかがえない。

 しかし、小柄でほっそりとした身体の輪郭は女性のように思えた。

 そこで世花は思い出す。

 この夜鳥島でかつて命を落とした最強の霊能者の名前を。

「あなたは……」

 と、口を開き掛けたところで修験者が右手で砂浜の方を指差した。

 その指の先には、月明かりに照らされた波打ち際で揺らめく一艘いっそうの舟があった。

 古めかしい木製でかいもついている。

「あれに、乗れっていうの……?」

 その問いを発した瞬間に、修験者の姿は夜闇に溶け込むように消え去った。

 世花は考える。

 舟など漕いだ事はない。そもそも彼女は泳げない。

 わざわざ、危険を犯して夜の海に出る事はないのではないか。

 どこかに隠れてはどうだろう……。

 しかし、このまま助けがくるまで、あの存在から逃げ切れるとは、やはり思えない。

 どちらがより生存率が高いのか……。

 世花は揺蕩たゆたう舟をしばらく見つめ決心する。

 あの修験者の霊を信じる事にした。

 防波堤の側面にあった石段から砂浜へと降り立ち、舟のある波間へと急ぐ。

 そして波に足元をすくわれそうになりながらも、どうにか舟を沖の方へと全力で押す。ふんばった右足首が千切れそうなくらい痛かった。それでも身体を使って押した。

 そうして舟に乗り込むと必死に櫂を動かす。

 中々コツが掴めなかったが、それでもどうにか舟は少しずつ砂浜を離れてゆく。

「……待ってて。恵麻。頑張って。絶対に助けを呼んでくるから」


 ……世花の記憶は、ここで途切れる。

 次に目を覚ました時、真っ先に目に入ったのは白い見知らぬ天井と、自らを心配そうに覗き込む母親の顔だった。




 恵麻と世花の母親であるアビゲイル・クラーマーと、父親である岡田春麻おかだはるまが離婚したのは、姉妹が小学六年生の頃だった。

 以降、アビゲイル・クラーマーは日本を離れて、実家のあるドイツのハルツ地方の片田舎で暮らしていた。

 そんな母親と世花が顔を合わせたのは、一昨年の父親の葬儀以来の事だった。

 何でも彼女の夢に、酷く心配そうな顔の死んだ春麻が現れたのだという。

 これは凶事の前触れ……と、娘二人に電話で連絡を取ろうとしたが繋がらない。

 その頃には既に二人は、夜鳥島へと旅だったあとだったのだ。

 そうして、いてもたってもいられなくなり、日本へとやってきたところ、今回の一件を知ったのだという。

「まったく。あの人は、いつも間が悪いんだから……昔から、そう」

 慣れた日本語でぼやき、アビゲイルは悲しげな顔で微笑んだ。

 そこで世花は、はっとして母に問い質す。

「お母さん、恵麻は!? 恵麻は……どこ?」

 慌てて上半身を起こそうとした世花を制してから、アビゲイルは沈痛な面持ちで首を横に振る。

「まだ、見つかっていない。あなたと一緒に例の島へと出かけた人たちもみんな……」

「そんな……」

「きっと、あっち側に・・・・・もっていかれた・・・・・・・のね」

 淡々とした母の言葉に世花の表情が曇る。そして彼女は堪えきれなくなり、大声をあげて泣きわめく。

 その右手をアビゲイルがそっと優しく包み込むように、握りしめた。




 それから世花はアビゲイルに、島で何があったのかを懺悔ざんげでもするかのように語る。

 アビゲイルは特に何も言わず、黙って話に耳を傾けていた。

 そして、すべてを語り終わると、娘を一人失った悲しみをまったく感じさせる事なく、世花にいたわりの言葉をかける。

 そこで世花は再び泣き出す。母の純然たる優しさが心を優しく貫いたのだ。

 しばらく、また涙を流し、落ちついてきたところで、世花はようやく思い出す。

「そういえば、お母さん……」

「何かしら?」

「警察庁の加藤という人には……」

「ああ。大丈夫。連絡は行っているわ。あなた、うわ言で繰り返していたみたいよ。警察庁の加藤さんに連絡を取るようにって」

「そう。よかった……」

 世花は、ほっとする。

「それじゃあ、しばらく日本にいるから……何か必要な物はある?」

 母の問いに世花は首を横に振った。

 アビゲイルが椅子から立ちあがる。

「またくるわね」

「うん。ありがとう。お母さん」

 こうして、アビゲイルは病室を後にした。




 母が帰ってから、間もなくだった。

 病室に見知らぬ男が現れた。

 自分より少し歳上に見えた。

 グレーのスーツに銀縁眼鏡をかけた神経質そうな顔立ちの男だった。

 彼をここまで案内してきた看護士が退室すると自己紹介を始める。

「始めまして。警察の者です」

「あなたが加藤さん?」

 ベッドに寝そべったまま彼を見あげて問うと男は首を振る。

「いいえ。加藤は私の上司です。私は穂村。穂村一樹と申します。あなたの父上にも一度だけご挨拶させてもらった事があります」

「はあ……」

 世花の父親も、生前は“狐狩り”と呼ばれる警察の捜査に協力する霊能者の一人だった。

「それで、岡田世花さん」

「はい」

「あの島で何があったのか、お聞かせ願えないでしょうか?」

 そう言って穂村は、さっきまでアビゲイルが座っていたベッドの脇の椅子に腰をおろした。

 世花は上半身を起こすと穂村を見据えて「長い話になりますけど」と言った。

 穂村は「どうぞ」と話を促す。




 ……こうして二〇一〇年に夜鳥島で起こった惨劇は幕をおろした。

 因みにこの事件は『ロケ隊が夜鳥島からクルーザーで帰る途中、高波により遭難。一名を残して他八名は行方不明』という風に事実とは異なる報道がなされた。


 そして後日、岡田世花は九尾天全の名前を継いで、父の春麻と同じ“狐狩り”となった。

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