【20】敗走


 あれだけ激しく降りしきっていた雨は、いつの間にか止んでいた。

 かしの木の格子に貼りつけられていた様々な札はすべて長い年月の経て、ボロボロに朽ちていた。

 銀の十字架には黒い錆が浮いている。

 かつて箜芒甕子憑きが監禁されていた土蔵二階の座敷牢の入り口は大きな南京錠で閉ざされていた。

 その扉の前で、岡田世花はほこりにまみれた床に腰を落とし、呆然とした様子でうつむいている。

 絶望に満ちた表情をしており、噛み締めた唇には血がにじんでいた。

 そして座敷牢の格子を挟んで、まるで鏡写しのように世花と同じ体勢で腰をおろす九尾天全が、肩を揺らしてわらう。

「どうした? 道化。貴様などに我は祓えぬぞ。我は貴様らがのたまうような、まやかしの存在ではないのだから……」

 九尾天全はふらふらと頭を揺らしながら立ちあがると、両手で頬に爪を立てる。

 そのまま引っ掻いた。

 左右四筋の傷痕が瞬く間に赤く染まり、鮮血が滴り始める。

「やめて! お願いッ!」

「ぶははははっ。いい顔をしているな……次は指でも一本ずつへし折ってやろうか?」

「やめてよ……」 

 そこで九尾天全の嘲笑ちょうしょうが、苦痛と悲しみに歪む。

 しゃがれ声から一転して恵麻の声になる。

「お姉ちゃん……もう良いよ……お願い……もういいから……」

「よくないっ!!」

 世花は感情をあらわにして両手の拳で床を思い切り叩いた。

 自分とは違い、頭もよくて器用で明るくて、みんなに好かれていた恵麻。

 優しくて、いつも駄目な自分を気にかけてくれた可愛い妹。 

 諦める訳にはいかない。絶対に……。

 世花はふらふらと立ちあがり、格子の向こうの九尾に向かって右手をかざす。目をつむり精神を集中させる。

 箜芒甕子に干渉を試みようとするが……。


「馬鹿めが」


 ぼきり……と、乾いた音が鳴り響く。九尾の左手の親指が根本からおかしな方向にねじまがっている。

「ふはははっ。自分の無力さに絶望しろ……ふはははっ」 

「やめてッ!」

 響き渡る狂笑。

 できのよい妹よりたった一つだけ勝っていた霊能力を持ってしても祓えない悪霊……箜芒甕子。

 どうやっても、何度やっても、触れる事すらできない。できそうにない。その存在を捕らえられない。

 やはり真の名前を知らない状態で、この存在に立ち向かうには無理があるのか。

 しかし、そんな物はどこにもなかった。

 足を引きずり、箜芒邸のいたるところを探した。

 和室、洋間、仏間、客間、書斎、物置、納戸、地下室……どこを探しても見当たらない。

 そもそも、名前を知ったところで、この存在を何とかできるのか。

 

 ……箜芒甕子は、本当に人の霊ではないのかもしれない。


 “普遍的無意識に住まう影の人格”


 世花は感情をあらわにして、両手を格子に叩きつけた。

「こんなの、どうすればいいっていうのよっ!」

 このまま待っていれば、もうすぐで助けはくるだろう。連絡が取れなくなった事に気がついた高原の所属事務所か、長尾らの勤めるドリームクラフトが警察に連絡するだろう。

 しかし、もう時間がない。

 このままでは、完全に恵麻が乗っ取られてしまう。

「……ところでぺてん師よ」

「な、何よ……」

 世花は疲れきった表情で返事をした。

 すると九尾天全があざけりの微笑を浮かべる。

「…… そなたの妹は、姉を差し置いて父の名を継いだ事に随分と引け目を感じているようだな。そなたも妹を憎んでいたのではないか?」

「違うっ!」

 世花は大声で叫んだ。

 “九尾天全”の名前に相応しいのは自分より妹であると心の底から思っていたし、そもそも自分は父の後を継ぐつもりはなかった。

「嘘を吐くな。素直になってしまえ。そんな妹の事など見捨ててしまえばいい……くはははは」

「お前に何が解るっ!!」

 世花の怒鳴り声が響き渡った次の瞬間だった。格子の向こうで邪悪な笑みを浮かべる九尾天全の顔が、くしゃりと悲しみに歪んだ。

「ごめん、お姉ちゃん。お姉ちゃんの方が本当は凄いのに……」

「恵麻……恵麻……わたしは別に……」

 九尾は必死に妹に語りかける。

 しかし、それは、まるで日蝕のように……。

「お姉ちゃん……本当に、ごめん」

 世花の目の前で、九尾天全の……岡田恵麻の精神を黒く染めあげてゆく。

「わたしから……遠く……離れ……てぇえへへへっ。ふはははっ」

「ねえ……しっかりして!」

「ははははははっ……」

 九尾が座敷牢の天井を扇ぎ、ゲラゲラとわらい出す。

 その直前に妹の気配が、消えていた。

「ねえ……お願い……返事をして」

 世花は泣きながら恵麻に呼びかける。しかし返ってきたのは彼女の物とは似ても似つかない、しゃがれ声であった。

「無駄だ。道化」

 そう言って九尾は格子の間際まで寄り、低い位置にある牢の入り口の扉を蹴った。

 どん……と大きな音が鳴って、座敷牢全体が震えた。

 格子にかかっていた十字架が床に落ちる。ほこりが天井から降りそそぐ。

 そのたったの一撃で座敷牢の入り口の蝶番ちょうつがいきしんで外れそうになる。

「そなたは、妹の手で殺してやる……」

 もう一発、扉を蹴りつけた。

 あと一撃は持たないだろう。

 深い諦感ていかんと絶望に見舞われた世花は迷った末に……。


「ごめん……なさい……恵麻」


「そうだ! 見捨てて逃げてしまえ! ふははははは……」

 その嗤い声を聞きながら傷んだ右足を引きずり階段を降りて土蔵から外へ出た。

 鮮血のような赤い夕焼けが一面を染めあげている。

 そんな狂った世界の中。

 雨露に濡れた裏庭の雑草を掻き分けていると、土蔵の中から大きな破壊音が聞こえてきた。

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