【10】突然の来訪


 二〇二〇年一月五日の午前十二時過ぎだった。

 駅前の総合病院の待合所で獄門島の文庫本をパタリと閉じた茅野循は、視線をあげる。

 すると、そこには満面の笑みを浮かべた桜井梨沙が立っていた。

 茅野は椅子から腰を浮かせて、鞄を持ちあげた。

「診察の結果は……聞くまでもなさそうね」

「うん!」

 と、桜井は勢いよく頷いた。

 二人は待合室を後にして、混雑したエントランスロビーを横切り、病院の玄関へと向かう。

「センセの話だと奇跡だってさ。綺麗さっぱり何事もなかったように、治っているって」

「これも座敷わらしパワーかしら?」

「だろうね」

 桜井は確信に満ちた表情で返事をする。

 自らの姉夫婦が営む店『洋食、喫茶うさぎの家』に、座敷わらしが住み着いている可能性が高い事は、既に茅野へと報告済みであった。

「……それで、梨沙さん」

 と、病院の玄関の風除室ふうじょしつから外に出た直後だった。茅野はその質問を発した。

「柔道の方に復帰するのかしら?」

 彼女が本格的に復帰を果たせば、これまで通りに心霊スポット巡りなどできなくなるだろう。

 また彼女の勇姿を拝めるのは素直に嬉しい。しかし、やはり、寂しくないといえば当然ながら嘘になる。

 茅野はひさしの下から続くステップを降りながら、静かに親友の答えを待った。

 すると、隣を歩く桜井は「循はどうしたらいいと思う?」と、質問に質問を返してきた。

 茅野は少し思案して、こう答える。

「貴女なら、私が何を言った所で、自分の思った通りにするでしょう?」

 我ながら、らしくない曖昧あいまいな返答だと茅野は思った。しかし、事実でもあるだろう。

 桜井ならば自分におかしな気を使ったりしないと、茅野は信じていた。

 その本人が導きだした答えは……。

「今更、柔道部に行っても来年は三年生だからねえ……」

「でも、貴女なら、今入部しても即レギュラー、即戦力だと思うけれど」

 と、冗談めかす茅野であったが、桜井はあくまでも真面目な調子で答える。

「二年以上もブランクがあるし、そんなに甘い世界じゃないよ」

 ……いや、貴女なら大丈夫……と、茅野は言いかけたがやめておいた。

 きっと、それは門外漢には解らない領域の事柄なのだろうから。

 桜井が肩をすくめて言葉を続ける。

「別に部活でレギュラーになる事が目的じゃないしね。それに……」

 そして、胸の前で拳を掲げると遠くを見つめながら宣言する。

「まだ見ぬスポットが、日本のどこかであたしを待っている!」

 まさか、ここまで心霊スポット巡りにドハマりするとは、とうの本人ですら予想もしていなかった事だろう。

 呪われたり、危険な犯罪者と対峙たいじしたり、時には熊に襲われて死にかけたり……そういった経験は柔道の試合以上の甘美なスリルを彼女の脳内にもたらし、すっかりとりこにしてしまっていた。

 その答えを聞いた茅野は「……そう」と呆れた様子で微笑む。ほんの少しだけ無意識のうちに足取りが弾む。

「まあ、柔道を辞めるつもりはないよ。春休みに入ったら道場にでも行ってみるつもり」

 桜井はそう言って屈託なく笑う。

 そこで茅野はおもむろに右手首に巻いたワイアードエフの文字盤を確認する。

「まだ少し時間があるわね……」

「そだね」

 桜井もスマホの画面を覗き込む。

 このあと、二人は九尾天全と県庁所在地で直接会う約束があった。

 どうも、桜井と茅野に直接会って話したい事があるらしい。

「それにしても、何だろうね。九尾センセ。わざわざ、東京からこっちにくるなんて」

「さあ」と茅野は肩をすくめる。

 メッセージで事情を聞いても『用件は直接会って話す』の一点張りであった。

「何にしろ、これはきっと面白い事に違いはないのだろうけれど」

「そだね。絶対に面白い事だよ」

 二人は期待に胸を膨らませながら駅へと向かった。




 そして、十四時過ぎ。

 県庁所在地の駅前のファミリーレストランの奥まったテーブルで、九尾天全は桜井梨沙と茅野循の二人と向き合っていた。

 店内は適度に混雑しており、適度に五月蝿かった。相談事をするには、もってこいの環境である。

 そんな中で九尾はカルボナーラ、桜井はおろし豚カツ定食、茅野はディアボラ風チキンソテーセットで昼食を取る。

「……んで、センセ。話って何なの?」

 桜井が大根おろしと豚カツを一切れ、口の中でモグモグさせ、気軽な調子で本題を切り出した。

 すると九尾は、カルボナーラを口元に運ぶ手を止めてうつ向く。

「実は、二人にお願いしたい事があって……」

 茅野が怪訝そうに眉をひそめる。

「お願い?」

「ええ。その……」と、言い淀む九尾。

「歯切れ悪いなあ……センセとウチらの仲じゃん。何でも言ってよ。……あ、でもお金は一万円までね? あと、ここはワリカンだから」

「違うわよ! てか、未成年にお金借りに東京から遙々こんなところにくる訳ないでしょ!? ……ていうか、食事代くらい出すから!」

 九尾は桜井のボケとも本気ともつかない言葉に突っ込む。

 茅野はカップの中で湯気を立ちのぼらせていた珈琲をすすり、つとめて真面目な調子で言う。

「それなら、いったい何なのかしら? 貴女には色々とお世話にもなっているし、相談内容次第ではあるけれど、此方としては大抵の事は聞き入れるつもりでいるわ」

 桜井もコクコクと首を揺らす。

 この言葉で意を決した九尾は、二人を交互に見据え、

「梨沙ちゃん、循ちゃん……」

 テーブルに両手を突いて頭をさげ、その願いを口にした。


「“調伏法ちょうふくほう真髄しんずい”を譲って欲しいの!」


 桜井と茅野は顔を見合わせる。

 “調伏法の真髄”とは、昨年末の白蝶旅館の一件で茅野が手に入れた最強の護符ごふである。

 既に九尾本人から、あの札がいかなる魔をも祓う霊験れいげんあらたかな力があり、出すところに出せば一枚数千万はする貴重な品物である事を聞いていた。

「お金なら……ある。これでもけっこう、稼いでいるのよ。わたし」

 神妙な表情で二人の出方をうかがう九尾。

 この二人の事だから相当吹っかけてくるに違いないと警戒していた。しかし、それでも九尾は、あの最強の護符である“調伏法の真髄”を手にいれたかった。何ならローンを組んででも……彼女の決意は堅い。

 しばし、店内の雑踏ざっとうに耳を傾けながら黙って二人の返答を待つ。

 すると、最初に口を開いたのは茅野であった。

「まず始めに疑問があるのだけれど……」

「何?」

「なぜ、貴女は梨沙さんが画像を送った段階で、適当に嘘を吐いて、あの札を私たちから巻きあげようとしなかったのかしら?」

「へ?」

 何を言われているのかさっぱりと解らず、目を丸くする九尾。

 茅野は残念なものを見るような視線を彼女に向け、遠慮えんりょなく続ける。

「適当に『その札は呪われている』とかなんとか言えば、私たちは貴女に従わざるをえなかったと思うわ。なぜ、そうしなかったのかしら?」

「そういうところだぞ! 九尾センセ」

 桜井が眉を釣りあげる。

 九尾は二人の顔を交互に見渡し、

「えっ、え……わたし、ひょっとして、嘘偽りなくあなたたちの質問に答えて、裏表なくあなたたちに取引を持ちかけてるのに、怒られてる!?」

「もっとクレバーにならなければ駄目よ? 先生」

 茅野の言葉に、釈然としない物を感じながら「ご、ごめんなさい……」と訳も解らず謝ってしまう九尾であった。

 茅野は桜井と顔を見合わせて溜め息を一つ。

「まあよいわ……。そんな事より、貴女はあの札を何に使うつもりなのかしら?」

 当然この質問がくる事は予測していた。

「答えなければ駄目?」

「駄目よ」

 茅野はきっぱりと言う。

「それ、取引の条件よ」

 九尾は迷う。

 事情を話せば確実に『連れていけ』と言うだろう。だが、いくらこの二人でも、あの魔境・・は荷が重い。

 本当に死ぬかもしれない。

 しかし、“調伏法の真髄”が無ければ、恐らくあの存在・・・・には勝てない。

 たっぷりと言い淀み、逡巡しゅんじゅんして……九尾天全は口を開く。

「妹の敵討ちの為に、その札がどうしても必要なの……」

「妹?」

 桜井が首を傾げる。

「……妹なんていたんだ、センセに」

 九尾は頷く。

「双子のね」

「もしかすると姉妹そろって霊能者だったのかしら?」

「そうね。妹は……あまり強い力は持っていなかったけど」

 九尾は凡そ十年前の夏に起こったあの島での出来事を思い起こす。


「妹は殺されたの。夜鳥島の悪霊に」

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