【08】箜芒甕子の正体


 箜芒邸の門前で呆然と膝を突いていると辺りはいつの間にか夜のとばりが降りていた。 

 本当にあれは悪霊の仕業なのか。悪霊などという物がこの世の中にいるというのか。

 否。

 そんな事はあってはならない。

 妹をおかしくしたのは……妹を殺したのは、あの男だ。

 憑き物など、この世にはあってはならぬのだ。

 私は再び力を振り絞り、立ちあがる。

 この世に不思議な事など何もない。

 そして、あの男は人殺しだ。妹は哀れな犠牲者だ。それを証明する為にも、この世に超常はあってはならないのだ。

 私は土蔵へと戻る。

 風もないのに札や十字架が震え、盛り塩が変色して崩れたあの現象――何か見落としがあるに違いない。 まずはあれを解明しなくてはならない。

 事切れた平川を跨ぎ、階段を駆け登る。薄暗く静まり返った座敷牢の明かりをつける。

 その時、私は大きく目を見開いて驚愕きょうがくした。

 入り口の両脇の――そして、牢の中の座卓の盛り塩は、散らばって・・・・・もいないし・・・・・変色もして・・・・・いなかった・・・・・

 全ては幻だったのか……そうとしか思えない。

 己の目にしたはずの光景が……確かだと信じていた現実が疑わしくなる。

 世界が歪む――。

 その瞬間、私の頭脳に天啓てんけいが舞い降りた。

 やはり箜芒甕子は、悪霊などではなかったのだ。

 あれは全てが幻。

 札や十字架が震えたのも、盛り塩が変色して散らばったのも――。

 やはり、現実にあんな・・・・・・事が起こるはずが・・・・・・・・ない・・

 そして、始めに箜芒甕子は言った


 『我は神ぞ?』


 それはある意味で正しい。

 だから知っていたの・・・・・・・・・

 私の左眼や妹の事を……和尚のほくろの事、右膝の怪我の事。

 何故なら箜芒甕子・・・・・・・・は誰の意識・・・・・にも存在できる・・・・・・・のだから・・・・

 札や十字架が震えたのも、盛り塩の色が変わったのも、崩れて散らばったのも、箜芒甕子が私の意識を操って見せた幻なのだ。

 始めに私は箜芒甕子は、夜鳥島という特定の文化に依存する人々の心が作り出した人格だと考えていた。

 しかし、それが間違いだった。

 箜芒甕子は、個人を越えて、文化や民族すら越えた所に存在する。

 カール・グスタフ・ユングだ。

 つまり箜芒甕子とは――人々の普遍的無意識・・・・・・・・・に存在する影の人格・・・・・・・・・

 箜芒甕子は祟りや呪いの皮を被り、この島の人々に災いをもたらそうとしている。

 いや。この島だけではないのだろう。箜芒甕子はいずれ世界に害をなすつもりなのだ。

 何故なら全人類は、普遍的無意識を介して繋がっているのだから……。

 普遍的無意識を介在かいざいして人から人へ伝染する精神の病。二重意識。

 それこそが、箜芒甕子の正体なのだ。

 このままではいけない。座敷牢を出ようとした。その時、私は確かに耳にした。


「我の正体に、ようやく気がついたのか道化めが……」


 一拍遅れて、そのしゃがれた声が自分の口から出ていた事に気がつく。

 それで確信するに到る。自らの推測が正しかった事を――




 ――箜芒邸の離れから発見された手記はここで途切れている。









 一九四九年九月十七日未明。


「……おん 阿謨伽あぼきゃ 尾盧左曩べろうしゃのう 摩訶母捺囉まかぼだら……」

 薪が弾け、島の寄合所の前にある広場にしつらわれた護摩壇ごまだんの炎が揺らめく。 

麼抳まに 鉢納麼はんどま 入縛攞じんばら鉢囉韈哆耶はらばりたや うん……」

 護摩壇に向かっていんを結び、真言を唱えるのは、歳の頃が三十程の女性だった。

 彼女こそ当代最強の霊能者である川村千鶴かわむらちづるである。

「……おん 阿謨伽あぼきゃ 尾盧左曩べろうしゃのう 摩訶母捺囉まかぼだら……」

 そんな彼女の後ろには、結界があった。

 九本の地面に突き立てられた棒とその間を渡す荒縄には破魔の札が沢山さがっている。

 その中央に女が一人。

 白い襦袢じゅばん姿で、後ろ手にされ荒縄で縛られている。

 正座をして項垂れており、汗で湿った長い髪をすだれのように顔の前に垂らし、上半身を前後に揺らして呻き声をあげている。

 箜芒華枝であった。

 川村は、彼女に取り憑いた箜芒甕子くのぎみかこの悪霊を払おうとしているのだ。

 そんな二人の様子を大勢の人々が遠巻きに見守っている。

 彼らは今宵、長い年月の間、この島を蝕んできた呪いが潰える瞬間を今か今かと待ち望んでいるのだ。

 時間の経過と共に、その期待は高まりを見せる。

 やがて日没と共に始まったその儀式が佳境を迎えた、その時だった。川村の真言を唱える声音が次第に熱を帯びる。

麼抳まに 鉢納麼はんどま 入縛攞じんばら鉢囉韈哆耶はらばりたや うん……」

 華枝が奇声をあげながら喉をしならせ、夜空を仰ぎ見る。

 脱力し、肩で大きく息を吐きながら項垂れる……。

 川村が立ちあがり、結界の中の華枝に向かって九字を切る。

 華枝が身体をくねらせ、地面に吐瀉物としゃぶつを撒き散らし始める。

 きっ、と、突き刺すような目つきで川村を睨みつけ、しゃがれた声を発した。

「人間はか弱く、愚かなものよ。自らの過ちを認められぬほどにな……」

 川村は悪霊の言葉には耳を貸さない。そのまま九字を切り続ける。

「我を調伏したとしても、呪いは残る。永遠に滅びぬ……貴様ごときまやかしの力には……」

「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前っ!」

 がくり……と、糸の切れた操り人形のように脱力し、動かなくなった。

 川村は「ふう」と一つ溜め息を吐くと、額の汗をぬぐった。

 そして、視線をあげると事のなりゆきを見守っていた観衆を見渡す。

「もう、大丈夫です。箜芒甕子の亡霊は祓われました。この島の者が彼女に憑かれる事はありません」

 その言葉が川村の口から漏れた瞬間だった。

 島民たちからどよめきが起こり、それは次第に川村を讃える歓声へと変わる。

 すべての者たちが喜びを爆発させる。近くにいた者と手を取り、抱き合う。

 膝まずいて涙を流しながら、川村をまるで神仏か何かの様に拝む者までいた。 

 しかし、次の瞬間だった。

 銃声がとどろいた。

 島民は静まり返り、銃声のした方向へと一斉に視線を集めた。

 すると、島民たちの後方――寺の表門に背の高い男が九四式拳銃を構えて立っていた。

 ほつれたオールバックに神経質そうな丸眼鏡。白衣をまとっている。

 村民の一人が「先生……」と、声をあげた。

 すると先生と呼ばれたその男は肩を揺すりながら笑い声をあげ、凄絶せいぜつな笑みを浮かべる。

「いひひひっ……お前らぁ……我が誰であるか解るかぁ?」

 目羅鏡太郎めらきょうたろう

 しかし、それはいつもの彼のものとは大きく違うしゃがれた声だった。

 島民たちの間にざわめきが広まる。

 目羅は寺の境内に集まる人々をゆっくりと睥睨へいげいすると名乗る。

「我こそは、この地を未来永劫、呪い続ける災禍、箜芒甕子なり……」

 川村の瞳が大きく見開かれる。

「馬鹿な……おかしな冗談はやめろ。目羅先生」

 目羅が拳銃を構えたまま、おぼつかない足取りで川村の方へ歩み寄る。

 人混みが割れて、まるでモーゼのように川村までの道ができる。

 目羅は再び丸まった背中を揺らして嫌らしく笑う。

「貴様の力は何の意味もなさなかった。現に我が意識は、未だにこの世に止まり続けている」

「世迷い言はやめろ! 目羅博士……箜芒甕子の亡霊は既に私が祓ったのだ。冗談は……」

 川村の顔色に焦りの色が浮かぶ。

 彼女は一歩後ずさる。

「世迷い言を申しておるのは、どちらだ? 我は普遍的無意識の深淵より浮かびあがる全人類の敵。それこそが呪いの正体、我そのもの……。人の悪意の雛型。まだ気がつかぬのか?」

 拳銃のトリガーにかけられた人差し指に力が込められる。

 目羅の口角が大きく釣りあがった。

「霊媒を騙る愚かな道化め」

 その言葉と同時に銃声が轟く。

 一発、二発、三発、四発……その内の一つが、川村の眉間を貫く。穴が空き鮮血が跳ね飛んだ。

 川村はふっ飛び、その背中が護摩壇の柵に当たる。

 彼女の後ろ髪に火の手が燃え移り、頭がすっぽりと炎に包まれた。川村はそのまま地面にへたり込む。

 一斉に悲鳴があがった。

 それをかき消すように目羅は世界のすべてをあざけるように笑う。

「我はそなたらすべての心に潜んでいる! 全人類の普遍的無意識に住まう影の人格なのだ! ぜん一つひとつ也。いちすべて也。そなたらは我、……それこそが箜芒甕子であるッ!」

 そう言って、目羅は銃口を口にくわえた。

 銃声が轟き、目羅の延髄えんずいが砕け散った。

 再び村人達の悲鳴があがる。

 その直後だった。

 結界の中でへたり込んだままだった華枝が、まるで糸に吊られたマリオネットのように立ちあがり、大声で嗤い始めた。


 こうして終わらぬ惨劇の幕はあがったのだった。

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