【07】この世の地獄


 それから数日後の昼過ぎ。

 華枝との面談の最中だった。

 いつも通り、彼女は座敷牢の奥にある寝台の上で身を起こし、私はその脇の丸椅子に腰かけていた。

 彼女の容態には波がある。しかし相変わらず経過は上向きであった。私が島にきたばかりの頃とはまるで別人の様だった。

 彼女は治療に協力的で、己が二重意識という精神の病を患っている事を理解して自覚し、完治への道を医師である私と共に歩もうとしてくれていた。

 この日は随分と調子がよかったらしく、話の合間に彼女がふとこんな事を言い出した。

「先生。私、病気が治ったら行きたい所があります」

「それは何処どこだね?」

 私が問うと彼女は記憶を辿るように遠い目をする。

「昔、私がまだ小さかった頃、お父さんとお母さんに、淡嶋神社の秋の大祭に連れて行ってもらった事があります」

「ほう。甘酒祭かね?」

 華枝はコクリと頷く。

 淡嶋神社では毎年十月の第四土曜日に甘酒の神でもある少彦名命スクナビコを祭る行事が執り行われる。

「真っ赤な本殿で、私と同じくらいの子供がお神楽を舞っていて、屋台のお団子とか、甘酒も真っ白で美味しかった」

 うっとりとした表情で、華枝は微笑む。

 その時の彼女は、まるで野山に咲く白百合のように可憐かれんで私は思わず見とれてしまっていた。

「病気が治ったら、もう一度だけ、あのお祭りに行ってみたい。そうしたら、その後で私は兄様の事をつぐないたいと思います」

「……償いの事は、今は考えなくてよい」

 私は寝台の上の華枝の右手をぎゅっと握り締めた。

 少し驚いた様子の華枝。

「まずは完治を目指そう。そうして病が治ったら」

 私と一緒に淡嶋神社へ――と、口にしかけた、その時であった。

 彼女が私の手を強く握り返し、爪を立てた。

 私は苦痛に顔を歪め手を離す。

 すると華枝はうつ向いたまま、ゆっくりと肩を揺らし始める。

「華枝君?」

 呼びかけたが返事はない。

 代わりに、その全てをあざけるような、世界を呪うようなわらい声が次第に大きくなる。

 同時に背後でガサガザと音がした。私は音に弾かれるように立ちあがり振り向いた。

 すると格子に貼られた札や十字架が、あの時と同じように震えていた。

 そして座卓の上の盛り塩が、日蝕のように黒く染まってゆくではないか。

 次の瞬間、真っ黒に染まった盛り塩が見えない何かに薙ぎ払われたかのように崩れた。

 何もかも同じだった。ただ一点を除いて――。

 今回は窓が開いていない。この現象の原因は風ではない。

 そこで私は、ふと恐ろしい事に気がつく。

 初めてこの座敷牢を訪れた時、札や十字架が震え塩の色が変わった時、本当に風など吹いていたのだろうか。

 私が原因は風であると指摘した時だ。あの時に見せた平川の何処どこか納得のいかないような顔――。

 やはり、風など吹いていなかったのだ。

 だが、しかし、もしも風ではないとするならば、これは何だというのだ。

 私は臓腑ぞうふの奥から湧きあがるその感情を抑え切れずに、叫び声をあげた。

 すると、その直後だった。


五月蝿うるさい、道化よ」


 私は振り向き、その禍々しい声の主を見あげた。

 華枝が寝台の上に立ち、私を虫螻むしけらのように見おろしていた。

 華枝が――いや。箜芒甕子が、まるで獣のように嗤いながら問うてきた。

「お主のその左目……父親に殴られた事が原因だろう?」

 それはあの誠司にすら話していない事だった。私は唖然とした。

 箜芒甕子は更に続ける。

「お主が神秘をいとう理由は妹であるな?」

「やめろ」と叫んだ。しかし箜芒甕子は聞き入れようとしない。 

「お主の妹は十二の時に狐憑きにかかった。祈祷と称して飲まず食わず、真冬の寒風の中、冷たい井戸の水を散々に浴びせられ、殴られ蹴られて息絶えた」

 気がつくと私は膝を突き、むせび泣いていた。

 しかし箜芒甕子は嗜虐的しぎゃくてきな微笑みを浮かべたまま、誰も知らないはずの話を語り続ける。

「しかし、お主の父親は大喜びだった。あの男はろくでなしだったからだ。あの男は酒に賭事、気に食わなければ、すぐに怒鳴り声をあげて暴力を振るう。お主の母親が逃げ出した後は、毎夜、毎夜、妹の事を……」

 私は有らん限りの力で獣のように吠えて、その言葉の先をさえぎった。

「あの男は、妹の頭がおかしく・・・・・・・・・なった原因を・・・・・・狐のせいにした・・・・・・・。お主はそれが許せなかった」

 聞きたくなかった。私は耳を押さえながら貝のようにうずくまった。

 箜芒甕子が寝台から降り立つ。

 そして、そのしゃがれた声で、酷く優しい調子で甘くささやく。

「お主も同じなのだろう?」

 意味はすぐに理解できた。しかし認めたくはなかった。

「我が憑代よりしろのこの女に妹の影を見ていた。父の下で何もできないお前に助けを求める妹の姿を……」

 うずくまる私の鼻先に生臭い死者の吐息が漂う。

 私は身を起こして箜芒甕子に掴みかかろうとした。

 すると彼女の両腕を束ねた木のかせが振りおろされ、額に直撃した。

 私は意識を失った。




 目を醒ましノロノロと立ちあがった。

 牢の扉は開いており箜芒甕子の姿は見えない。

 私は座敷牢から出ると階段を降りた。

 すると土蔵の入り口が開いていて、その向こうから夕日が射し込んでいた。

 その彼岸花よりも赤々とした光に照らされた階段の下で、平川が倒れていた。

 首がおかしな曲がり方をしており、既に息絶えている事は明白だった。彼のすぐ近くには壊れた手枷が転がっている。

 私は夢見心地のまま土蔵を後にした。

 縁側から母屋にあがり「誰か……誰か……」と声をあげながら箜芒邸をさ迷う。

 すると、私の瞳に飛び込んできたのは、まさにこの世の地獄であった。

 邸内に転がる無数の屍……屍……屍……死屍累々ししるいるいたる屍と鮮血の原。

 全ての者が惨たらしく恐怖に顔を歪め、ただの一人も生きていない。

 血に染まった床や畳。

 壁に紋様を描く赤い飛沫。

 破れた障子やふすま

 転がる臓腑ぞうふと肉片。

 千切れた指。

 箜芒英司と富枝は玄関へと続く廊下で倒れていた。

 英司は必死に抵抗したのだろう。右手には九四式拳銃が握られていた。しかし、その頭は真っ二つに割られている。

 そんな彼の近くに下顎したあごをなくした富枝が血溜まりに沈んでいた。

 私は、おぼつかない足取りで玄関から外に出た。

 そして、それは暮れなずむ世界の中。箜芒邸の門より向こう側。

 白装束に笠を被った修験者が佇んでいた。

 川村千鶴だ。彼女が真如と何か言葉を交わしている。

 そんな彼らの足元には、赤い着物姿の人物が頭を向こう側に向けて倒れている。華枝だった。

 その彼女の身体を川村が軽々と持ちあげる。

「待て!」

 川村は私の制止を聞かずに、門前から遠ざかってゆく。

 代わりに真如が私の元へとやってきた。

 彼は私の両肩に手を置いてった。

「これで解っただろう、先生。貴方は・・・もて遊ばれて・・・・・・いたのだ・・・・

 私はここにきて、まだ認めたくはなかった。

「後は我々で何とかする。貴方は明日の朝、島を出なさい。そして、ここでの事は忘れるのです」

 真如はそう云い残し、門前で膝を突く私を放置して立ち去っていった。

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