【11】化け物


 雨足は弱まりつつあった。

 それは、セダンと右隣の車との間。

 その前後の両端に立ち、睨み合う茅野と黒ヤッケの男。

 桜井は素早く戦況を分析する。


 ……やはり、この男、侮れない。こちらが女だと思って、安易に近づいてくるような真似はしない。


 それは裏を返せば、わざわざ焦らなくても、いつでもこちらを何とかできるという自信のあらわれであるようにも感じられた。

 そして、茅野の切り札はコートのポケットに入っているペッパースプレーである。因みに安全装置のピンは既にトランクの蓋を閉める前に抜いてあった。

 そのスプレーの成分がほんの少しでも相手の目に入りさえすれば、その動きを二、三時間は封じられる。

 スプレーの噴射ふんしゃは水滴と霧状の中間のジェットミスト方式。

 効果範囲は直径三十センチの円で、射程は三メートル……この手のスプレーの詳しいスペックについて、桜井は以前に茅野から聞いていたので知っていた。

 そして、男と茅野の距離はおよそ四、五メートルはある。

 なお、ジェットミスト方式は雨に強い為、この悪天候は考慮しなくてよい。

 したがって、茅野が必殺の一撃を男に浴びせかけるには、二、三歩程度は踏み込まなければならない。

 この二、三歩という間合いが厄介である。

 男が武道の有段者ならば、茅野が間合いを詰めてスプレーの噴射口を向け、ボタンを押す指に力を入れる前に、逆に間合いを詰められて、あっさりと対処される可能性が高い。

 はっきりいって分はかなり悪い。

 ……しかし、桜井は確信していた。

 あの茅野循ならば、この程度の局面は容易に切り抜けるだろうと――。




 向かい合うミリタリーコートの少女が口にした言葉――


 チョウピラコの使徒。


 ふざけている……訳ではなさそうだった。

 酒本は問う。

「お前らあの疫病神と、どういう関係だ?」

 ミリタリーコートの少女は“疫病神”という言葉に一瞬だけ眉をひそめるも、すぐに気を取り直した様子で言う。

「貴方の事を止めにきたわ」

 その言葉を聞いて酒本は確信する。

 どういう訳かは知らないが、この二人の少女は自分のやろうとしている事を知っているのだと。

 そして彼は目ざとく気がつく。

 ミリタリーコートの少女が、目線を真っ直ぐに向けたまま、コートの右ポケットに手を突っ込んで何かを袖口に隠した事に……。

 暗くて良く見えなかった。しかし、想像はつく。

 スタンガンか催涙スプレー。

 酒本は手の動きを注視しながら言った。

「止めにきただと……?」

 酒本は動き出す。

「ならば、やってみろッ!」

 するとミリタリーコートの少女は右手を下に向けて、袖口に隠していた物を掌に落とした。

 踏み込みながら、その右手を振りあげる。

 左手に不審な動きは見られない。空だ。

 ……つまり、この右手を防げば詰み・・となる。

 酒本は彼女の右手首を取って腕を真横へと開いた。隣の車のサイドウインドに押しつける。

 すると、その瞬間だった。

 ミリタリーコートの少女が悪魔のように笑った。

 酒本は悟る。

 彼女の右手に握られていた物。

 それは、ペンライト・・・・・

 少女はペンライトをあたかもスプレーであるかのような持ち方で握っていた。

 彼女は袖口に隠したペンライトを囮に使ったのだと……。

 あのポケットから右袖に隠す仕草も、わざと気づかせる為にやったのだ。

 そして、左手はあえて動かさなかった。それは『右手を防げば勝ち』であると思考を誘導する為だ。

 酒本の心に明確な恐怖が芽生える。

 こいつは只の女ではない。

 そして目の前の化け物・・・が人語を紡いだ。


詰みよ・・・


 その言葉と同時に少女は左ポケットから何かを抜いた。

 雨音を割って、からん……と音がする。

 スプレー缶には中の液を撹拌かくはんする為にビー玉が入っている。その音だ。

 既に噴射口は眼前にあった。 

 防御も回避も間に合わない。

 視界がスプレー液の赤に染まる。

 すべては計算ずく……しかし、それだけではない。この結果を導く為には、恐ろしいまでの冷静さと馬鹿みたいな度胸が必要となる。

 まともな人間に・・・・・・そんな事ができる・・・・・・・・はずがない・・・・・

 酒本は絶叫した。

「お、お前ら……いったい何なんだよぉおおッ!」

「梨沙さん……警察に電話して頂戴ちょうだい。……あと、これ」

 そう言って、茅野は布に包まれたピッキングツールを片手で放り投げる。

 桜井がそれを取り落としそうになりながらキャッチする。

「一応、どこかに隠しておいて。そこら辺に……」

 そう言って茅野は旅館の生け垣を指差す。

「がってん」

 桜井は生け垣の方に向かいながら、コートのポケットからスマホを取り出して警察に電話をかけ始めた。 

 すると酒本がうずくまったまま、大声で叫び始めた。

「糞……糞……被害者は俺だ……俺には復讐する権利があるッ!」

 茅野はスプレーを酒本に向けたまま、淡々と言葉を紡ぐ。

「貴方にどんな理由があったのかは知らない。貴方はとても可哀想な人で、こうなるべくして、なってしまったのかもしれない……」

「そうだよッ! 俺は……あの妖怪のせいで……」

 すべては座敷わらしが悪い……そう吐き出そうとした。

 しかし茅野は冷静な声音で、その言葉をさえぎる。

「だからといって、大勢の人を巻き込んでいい理由にはならない」

「何も知らない癖に! お前に何が解るッ!! 綺麗事を抜かすな!!」

 酒本も負けじと更に声を張りあげる。

 誰だってこうなる。

 自分の意思とは無関係に不幸のどん底に落とされ、虐げられれば自分のように鬼になる。

 それは、当然の事ではないのか……。

 しかし、その酒本の慟哭どうこくに、茅野循は淡々と答える。

「解る訳がないわ。赤の他人の事なんて」

 そして、冷酷に言い放つ。

「だから、たとえ貴方の事情を知ったところで、私は何度でも同じ事を言うわ。……迷惑なの。貴方の人生に私たちを巻き込まないでくれる?」

 そして最後に、とても残酷な、その言葉を投げかける。


「甘えないで」

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