【08】鬼になる


 二〇一四年の初夏の昼さがり。

 沖縄の離島にある山林の中。

 それは人目から隠れるようにひっそりと佇む白亜の邸宅だった。

 庭先では血のような梯梧でいごと純白の鉄砲百合が咲き乱れている……それらを臨む事の出来るリビングの硝子張りには、男の怯えた表情が映り込んでいた。

 痩せた貧相な六十代の小男で、腹だけが蛙のように丸く肥えている。

「や……やめてくれ……すっ、すまなかった」

 彼の名前は久保太一くぼたいち

 この男が桑屋の火災の後で金を持ち逃げした番頭である。

 酒本の当初の復讐の標的は彼であった。

 久保はだらしなくリビングの床にへたり込み、涙を流しながら命乞いをする。

 その彼を冷徹な瞳で見おろすアロハシャツの男。

「すまなかったで済んだら、こんなところまでこねえよ」

 酒本であった。右手に持ったチャイナトカレフ黒星のスライドを引く。薬室に最初の一発が装填される。その瞬間だった。

「あ……ああ……ああーっ!」

 久保の穿いていた白いハーフパンツの股の部分に染みが広がり、酒気の混ざったアンモニア臭が立ち込める。

 小久保は尻を床につけたまま後ずさりした。彼の背中がローテーブルの縁にぶつかった。

 銃口の向きはしっかりと彼の動きを追尾していた。




 ……酒本が久保を見つける事が出来たのは、幸運な偶然によるものだった。

 彼は二〇〇九年に自衛隊を辞めた後、久保の縁者から彼が桑屋の火災の後でマレーシアへ向かった事を聞き出し日本を発った。

 しかし、久保が一時期ペナン島のジョージアタウンで暮らしていた事までは突き止めたが、そこに彼の姿は既になかった。

 どうやら久保は詐欺や窃盗などを繰り返しながら、東南アジアを渡り歩いているらしかった。

 上海……マカオ……プノンペン……ラオス……執拗に久保の行方を追った。

 元々、酒本は天涯孤独の身であり、恋人はもちろん頻繁に連絡を取り合うような友人もいなかった。

 余暇は図書館から借りた本を読むか、体を鍛えるかで趣味は特にない。ギャンブルも酒もやらない。

 自衛隊の頃の給料のほとんどを貯金していた。

 ゆえに復讐の為の時間も資金も潤沢じゅんたくにあった。

 しかし久保の足取りはようとして掴めず、ただ悪戯に時間だけが過ぎ去ってゆく――


 ……そうして、海外を転々としながら暮らし数年が経った、ある日の事だった。

 酒本はインドネシアのスカルノ・ハッタ国際空港に降り立った直後、偶然にも久保の姿を見掛ける。

 どうやら久保は那覇行きの便に搭乗するようだった。

 酒本はすぐさま日本に取って返し、久保をようやく追い詰めたという訳だった。

「金……金ならある。そっ、そこの二階の……寝室の金庫に……本棚の裏だ」

 どうやら表には出せない金らしい……酒本は鼻を鳴らす。

「鍵は?」

「俺の指紋だ。右手の人差し指の指紋で開く」

 久保は右手をあげる。そして、よろよろと立ちあがる。

「いっ、今、開けてやる……」

 その言葉と同時にトリガーが引かれた。

 発砲音と硝煙。四条右回りの回転を得た弾丸がバレルから吐き出される。

 一発、二発、三発……久保の着ていたポロシャツが血に染まる。

 久保は膝を突き大きく目を見開きながら……。

「……何で……?」

「指紋で開くなら、もう別にお前が生きてる必要はないよな?」

 抑揚のない声でそう言って、床に突っ伏した久保の後頭部に残り弾をすべてぶち込んだ。

 それから酒本は隣のキッチンのラックから出刃包丁を持って戻る。久保の人差し指を伸ばして、ローテーブルの縁に置いた。

「お前が盗っていったモン、返してもらうぜ」

 酒本は出刃包丁を振りおろした。




 寝室の本棚の裏には、久保の言う通り指紋認証で開く金庫の扉があった。

 中には八千万程の現金と貴金属類が納められており、酒本はそれらをすべて回収すると久保の邸宅を後にした。

 普通ならば、これで復讐は終わりのはずだった。

 しかし、酒本の胸の奥には、ずっと冷めやらぬ怒りが渦を巻いていた。

 幼き日より、母に殴られながら聞かされた話……。

 すべては家を出ていったチョウピラコのせい。

 それは彼の脳裏に深く刷り込まれていた。

 チョウピラコを殺さなければ、この煮えたぎる怒りは収まらない……その衝動は彼を強く突き動かした。

 幸いな事にインターネットからの情報で、例の脚本家のエピソードは知っていた。これにより標的の所在は判明している。

 当然ながら白蝶旅館の座敷わらしが、かつて桑屋で奉られていたチョウピラコだとは限らない。その根拠はない。

 そもそも、脚本家のエピソードが真実だとも限らない。

 だが、チョウピラコを殺さなければならないという妄執にとらわれた酒本にとって、それはどうでも良い事だった。

 彼は行き場を失った怒り……それを何かに叩きつけたかった。

 しかし、当たり前の話であるが、彼は妖怪を殺す方法など知らない。

 少なくとも久保のように鉛玉をぶち込んで、殺せる相手ではない事は、何となく悟っていた。

 それにアイドルの握手会などと違って、旅館に行けば必ず会えるというものでもないだろう。

 チョウピラコを呼び出す方法も考えなくてはならない。

 そんな訳で酒本は、久保を殺した後で、それらを探る為に奔走する事となる。

 全国の霊能者たちの元を訪ね、自分でも様々な資料を当たった。

 もちろん時間は掛かったし並大抵の事ではなかったが、その結果あの“調伏法の真髄”に辿り着いた。

 呼び出す方法に関しては、霊能者たちが「此方から会おうと思って会える存在ではない」と、一様に同じ見解を述べた。

 そこで酒本は一計を案じる。

 チョウピラコが家の守り神を気取るというならば、その住処に災厄が訪れた時に姿を見せるのではないか。

 ならば・・・自分がその災厄に・・・・・・・・なれば良い・・・・・

 己の復讐をなす為に、大勢の無関係な者たちの命を踏みにじる事に、何ひとつ躊躇ちゅうちょはなかった。

 自分は理不尽に虐げられた被害者である……その自負が何の関係もない赤の他人を蹂躙じゅうりんする大義名分として、酒本の中で成立していた。


 こうして酒本岳は鬼となった。

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