【03】アベンジャー


 二〇一九年十二月二十七日。

 奈良県の南部に位置する山間だった。

 そこにあるのは林立する杉の巨木と、木立の隙間を埋める静寂のみ。人の姿はない。

 そんな樹海の道なき道の先……名前すら忘れ去られた尾根から続く岩場の先に、巨大な寺院があった。

 見あげる高さの棟門むねもんの両脇には、まるで今にも動きだしそうな阿吽あうんの仁王像が鎮座ちんざしている。

 そこを潜り抜け長い石畳を渡ると見えてくるのは、絢爛豪華けんらんごうか大伽藍だいがらんである。この寺院の本堂であった。

 その内部は薄暗い。

 花頭窓かとうまどから射し込む日の光と、燭台で揺らめく炎が照らすのみ。

「……で、これが約束の物じゃ」

 そう言って、本尊に手を合わせ祭壇の木箱を手に取ったのは緋色の袈裟けさを着た密教僧であった。

 顔に刻まれた深いしわとすすきの穂のような白眉をかんがみるに、歳は既に還暦を越えていると思われた。

 しかし、その所作は矍鑠かくしゃくとしており、年齢というものを感じさせない。名を圓斉えんさいといった。

 彼は己の手にした木箱をそっと開く。

 すると、中には一枚の紙の札が納められていた。

 その札を木箱ごと受け取ったのは……。

「これが、約束の金だ」

 黒ヤッケを着た・・・・・・・四十過ぎの男だった。顔の左半分に大きな火傷の痕がある。

 彼の名前は酒本岳さかもとがく

 酒本は圓斉に持っていたアタッシュケースを渡し、木箱の中にあるお札に目線を落とす。

 お札には梵字ぼんじが何らかの規則性を持って並び記されている。

「この札が“調伏法ちょうふくほう真髄しんずい”か……」

 それはいかなる魔も鬼も清め祓うと伝えられる護符だ。その製法は奥義であり、秘伝である。

 そもそも作り方を知っていたところで、おいそれと作れるものではなく、一枚につき数十年の刻をかけてようやく完成となる。

 ……ゆえに目玉が飛び出る程の値が張るのだ。

 圓斉は祭壇の上に置いたアタッシュケースを開き、中の札束を数えながら、妖しい表情で“調伏法の真髄”を眺める酒本に問うた。

「そんな大袈裟な物を使ってまで、お前がしずめたいモノとはなんじゃ?」

 大抵は・・・この札を使う・・・・・・までもない・・・・・

 こんな・・・物がなくとも・・・・・・事足りる・・・・

 それこそ、相手が鬼神や神魔の類いでなければ――。

 酒本はニヤリと不気味にほくそ笑み、圓斉の質問に答えた。

「最悪の疫病神だ。人々を不幸にして回っている恐ろしい奴さ」


 ……その名は“チョウピラコ”


 酒本は座敷わらしを確実に殺す為、この“調伏法の真髄“を使うつもりであった。




 酒本の生家は元々月夜見温泉郷の中でも最も古い旅館を営んでいた。

 屋号を“桑屋くわや”と言った。

 明治時代の創業で、彼の家は地元でも一位二位を争う名家であった。

 ……しかし、今から三十七年前の事。

 酒本が五歳の時、桑屋は火災により全焼してしまう。

 原因はボイラーの老朽化による故障であった。

 この火災により母の志づ枝以外の家族を、酒本はすべて失う。

 更に不幸は続く。

 酒本の亡き父の右腕であり、桑屋の番頭だった男が、金を持ち逃げして行方を眩ました。

 志づ枝は元々箱入りのお嬢様で世間知らずであった。その番頭を信用し、すべてを任せ切りにしていた事が裏目に出てしまう。

 そして、ここからが本当の地獄の始まりだった。

 元々名家である事を鼻にかけ、常に周囲を見下す態度を取っていた志づ枝たちに手を差し伸べる者はいない。

 火災の起こる以前に、懇意こんいにしていた者たちも金の切れ目が縁の切れ目とこぞって掌を返し始めた。

 酒本は母の志づ枝と共に月夜見市を離れ、県庁所在地にある小さな古い借家で、貧しい生活を送る事となった。

 志づ枝は歓楽街で身体を売り、酒浸りとなって、酒本をよく虐げた。

 彼の顔の火傷の痕は、志づ枝に熱湯をぶっかけられた事が原因だった。

 そんな最悪の母親が酔うと繰り返し口にしていた事がある。

 それが、チョウピラコの話だった。

 かつての酒本家の奥座敷には立派な床の間があり、そこにはなぜか石臼いしうすが置いてあった。

 志づ枝によれば、この石臼にチョウピラコが宿っていたのだという。

 そして、あの火災の原因は『チョウピラコが家を出ていってしまったから』だと志づ枝は述べた。

 また『チョウピラコが出ていったから、この今の辛い境遇があるのだ』とも……。

 まるで、それは己の愚かさの責任をチョウピラコに押しつけているかのようだった。

 それを言い訳にして、志づ枝は酒本に手をあげ続けたのだ。

 因みに酒本家はチョウピラコの存在について他所で口外していなかった。

 その為に桑屋を襲った不幸の連鎖が『座敷わらしに見放されたからでは?』と思う者は誰もいなかった。




 ……そんな訳で酒本は、座敷わらしが去った家には不幸が訪れて没落するという伝承を身を持って味わう事となった。

 そうして、それを虐待のトラウマと共に酒本へと刻み込んだ母も、彼が十三になった年に死んだ。

 大量の睡眠薬をアルコールと共に接種した事による中毒症状が死因であった。

 酒本には、その母の死が自殺であるか事故であるのかは、未だに判別がついていない。

 どちらにせよ勝手な話だと、思い出す度に堪えようのない怒りが湧いた。

 しかし、それ以来、酒本の人生はちょっとずつ上手く回り始めた。

 彼を身受けした施設は居心地がよく、心優しい人ばかりだった。

 もちろん、苦労もあったが、彼の人生はそれまでに比べるとずっと平穏なものとなった。

 酒本は十八までその施設で過ごし、自衛官になる為に一般いっぱん曹候補生そうこうほせいとなった。

 すべては順風満帆。しかし、それでも母の死体……酒瓶の林立する床に突っ伏した、彼女の憐れな末路を目にした時に感じた黒い怒りは、彼の胸の中でずっと渦を巻いていた。

 それは長い年月と共に熟成しヘドロのような腐臭を放ち始め、彼を狂気の底にいざなう……。



 十年前、酒本岳は自衛隊を辞めると、それ以降のすべてを、自分の人生を惨憺さんたんたるものに塗り替えた存在への復讐に捧げる事となった。

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