【File16】白蝶旅館
【00】黒ヤッケの男
黒ヤッケの男が灯油をまいていた。
ポリタンクを傾け、足元に線を引くように……。
「いひひひ……」
フードの奥から覗かせた口元は狂気の
むせ返るような刺激臭が立ち込めるその空間……。
大きなシンクと食器洗浄器。壁一面を埋め尽くす程の大きさの業務用フリーザーと食器棚。四つ並んだガスコンロのひとつには、あら汁の大鍋が乗っていた。壁にかけられた日捲りカレンダーには十二月二十九日とある。
天井に並んだ蛍光灯が、薄暗い乳白色の明かりで室内を照らしていた。その中央には大きな調理台と配膳台が二つずつ。
その影に割烹着姿の男が一人、灯油まみれになって、頭から血を流し、倒れている。
ぴくりとも、動こうとしない。
「いひひひ……俺を止めてみろよ……」
黒ヤッケの男はポリタンクを空にすると、それを思い切り食器棚に放り投げた。
がしゃん……と、けたたましい音が鳴り硝子戸が砕け散る。
その音を聞きつけたのか、ドタドタと誰かの足音が近づいてくる。
入り口にかかった
板前が叫ぶ。
「何だ、お前!?」
その言葉と同時に黒ヤッケの男は、肩にかけていた猟銃を手に取り、ストックの底を肩に当ててトリガーを引いた。
乾いた破裂音と
板前は額を弾かれて仰け反り、鮮血と
そのまま電池の切れた玩具の人形のように力なく床に沈み込む。ワンテンポ遅れて仲居が悲鳴をあげた。
男はボルトを前後させ、
そのまま入り口を潜り抜け、倒れた板前を無造作に踏みつける。その右手の廊下の先にあるエントランスロビーには既に人が集まりつつあった。
そして、正面の狭い廊下の向こうには、逃げる仲居の背中が見えた。彼は遠ざかるそれに照準を合わせる。
再び破裂音。
ホローポイント弾が
仲居の首が千切れそうになり、だらりと振り子のように揺れた。大量の鮮血を撒き散らしながら、左の壁にもたれ、ずるずるとへたり込んだ。
もう二度と立ちあがる事はない。その向こうで別な仲居が悲鳴をあげていた。
男は素早くボルトを前後させ、
廊下の先で口元を両手で抑えていた仲居の胸で血が跳ね飛び、吹っ飛ばされて倒れた。
そこで非常ベルが鳴り、にわかに空気が慌ただしくなる。
男はヤッケのポケットから紙マッチを取り出してこすった。
それをめくりあげた
紙マッチの表紙は緑地で、そこには白い
『白蝶旅館』
厨房が瞬く間に炎に包まれる。
黒ヤッケの男は、ニヤリと口元を歪ませ右手の廊下の先にあるエントランスロビーに視線を向けた。
既に野次馬は誰もいなかった。
けたたましい非常ベルの音。
古い木造建ての為か、火の回りは早い。
男は大股で狭い廊下を
共に白人で歳は五十過ぎぐらいに見えた。
一人は男で、まるで相撲取りもかくやという巨体の銀髪。もう一人は、昔はふくよかで美しかったであろうと思われる、頬の痩けた
夫婦なのかもしれない……男は二人の素性についてそう推測をしながらライフルを水平に構えてトリガーを引いた。
銃声。排莢と装填……空薬莢の転がり落ちる小さな金属音。
女の絶叫。巨漢の男の顔面が右半分だけ
その巨体が倒れるより早く、腰を抜かしてしゃがみ込んでしまった女が撃たれた。
派手に飛び散る鮮血。
女は胸に大きな風穴を開け、床に腰をおろしたまま項垂れた。
黒ヤッケの男は巨漢の屍を跨ぎ、項垂れて座り込んだままの女をストックで殴り飛ばした。
そこで立ち止まり、ふと右手の硝子戸の向こうにある中庭へと目線を向けた。
苔むした庭石と石畳。
綺麗に
優雅な波紋を描く
その手前の硝子に映った自分……まるで死神のようだと、彼は思った。
顔面の左半分が引き
黒ヤッケの男は口角を釣りあげ、不気味な笑みを漏らしながら、再び歩み始める。
「ふふふっ。俺は悪魔だ、鬼だ、死だ、破滅だ、怨霊だ、人殺しだ!」
既に館内に
遠くから微かにサイレンの音が聞こえる。
消防か……警察か……もしくは、その両方か……。
どうでもよかった。彼には関係がなかった。
「ぐふふふっ……俺を止めてみろよ……お前が本当に守り神だというならなぁ……ぐふふふっ」
彼はライフルのボルトを前後させた。空薬莢がごとりと床に落ちて転がる。
彼はそれを置き去りにして、憎悪と怨嗟に満たされた眼差しで虚空を睨みつけながら小さく呟いた。
「……チョウピラコ」
黒ヤッケの男が立ち去った後、床に転がったままの空薬莢がもうもうと流れる白い煙の向こうに飲まれた。
『月夜見温泉の老舗旅館で男が銃を乱射し放火、死者39名』
29日夜、
この事件により死者39名、怪我人が8名、うち2名が意識不明の重体で市内の病院に救急搬送された。
焼け跡からは犯人と思しき男の遺体も見つかっており、現在警察はその身元の特定を急いでいる。
(2019・12・30 ニュースサイトより抜粋)
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