【09】逆転


 桜井梨沙は帰ってこない。

「不味い……」

 屋根裏の入り口の下でじっと睨みあっていた月輪熊が、きびすを返して猛烈な勢いで書斎の方へ駆けていってから、五分が経過しようとしていた。

 いくらなんでも遅すぎる。

 屋根の上を歩く足音がいっこうに聞こえてこない。

 茅野は歯噛みする。

 いくら桜井が女子高生らしからぬ化け物じみた戦闘能力を有しているとはいえ、相手は熊である。

 まともにやりあって勝てる訳がない。追いつかれた瞬間にゲームセットである。

 嫌な想像が頭の中で膨らむ。

「やってくれるじゃない……サイコ熊」

 茅野は歯噛みして、目潰しぐらいになるだろうと、白骨死体の握っていた殺虫剤のスプレーを左手に取る。

 更に殺虫剤の中身がまだ入っている事を確認し、リュックの中から点火棒てんかぼうライターを取り出す。それをコートのポケットに入れた。即席の火炎放射器にする為だ。

 熊は火を恐れないが、目潰しにスプレーをかけてから火炎放射を吹けば顔ぐらいは火達磨ひだるまにできる。

 ……もっとも、そんなに都合よく事が運ぶとは茅野自身も思っていなかったが、丸腰よりはマシだ。

 代わりに瓶をリュックにしまい、背中に担ぐ。

 そうして、準備を整えた茅野は壊れかけの梯子はしごを廊下に降ろした。

 そして彼女は悟る。

 恐らくこれが熊の狙いであると……。

 外に出た方を襲い、引き籠っている方を釣りだす……。

「……でも、釣られてやるわよ」

 自ら死地に追いやってしまった親友を助けるために……。

 茅野は獰猛な笑みを浮かべ、二階へと降り立つ。

 辺りは不気味なほど静まり返っていた。

 何の物音も聞こえない。

 しかし、書斎の入り口の前に立った時、微かに遠くから熊の唸り声が聞こえた。

 そっと室内を覗き込むが誰の姿もない。壊れた扉口の向こうのベランダにも……。

「梨沙さん……?」

 茅野は恐る恐る書斎に足を踏み入れる。

 また熊の唸り声が聞こえた。そこで彼女はベランダの手すりの支柱が壊れている事に気がつく。

「もしかして、ベランダから落ちた……?」

 茅野はベランダへと出て、手すりから身を乗りだし真下を覗き込んだ――




 ――時間は数分前にさかのぼる。


 屋根によじ登っている余裕がないと判断した桜井梨沙は手すりから足を外してベランダから落ちた。

 そのすぐ頭上を月輪熊の巨体が通り過ぎてゆく。

 判断が数秒遅れていれば、腹に思いきり熊の頭突きを喰らっていた事だろう。

 ……ここまではよかった。

 しかし、手すりの支柱を掴んだところ、それが見事に折れてしまい、流石の彼女も重力の持つ力には逆らえず落下を余儀なくされる。

 桜井は花壇の迷迭香ローズマリーの茂みへと不時着した。

 木質化して固くなった枝がざわざわとこすれて音を立てる。

「いてて……」

 上着は長袖だったし、ハーフパンツの下にはレギンスを穿いていたのでダメージはなかったが、頬や手の甲に軽い引っ掻き傷を負ってしまう。

 桜井は花壇の中で立ちあがった。

「くっ……」

 右膝が痛んで顔をしかめる。もうまともに走る事もできなそうだ。

 花壇から数メートル離れた場所で黒い巨体が唸り声をあげている。

「これはいよいよかもね……」

 字面のみを見れば悲嘆にくれた言葉であった。

 しかし、桜井は笑っていた。この危機的状況を……。彼女の瞳に恐怖や絶望のかげりは見られない。

 その恐るべき黒い獣を見据えながら、右手で腰の鉈を……左手でハーフパンツのポケットに入れていた防犯スプレーを抜いた。

「きなよ。あたしの肉ならいくらでも喰らって構わないけど、お代は高くつくよ!」

 せめて、天井裏に・・・・隠れた・・・お姫様・・・が逃げやすいように、脚の一本でも、目玉の一つでも、もらってやる……桜井梨沙は、それが自分のやるべき事だと即座に覚悟を決めた。

 しかし……。


「……は?」


 熊が突然、地面にぺたりと腰を落としてしまった。

 そのまま動こうとしない。

「え? え……えっ?」

 桜井は混乱する。

 もしかして、自分を囮にして茅野循をおびきだそうとしているのかと、桜井は思ったが……。

「……いや、違う」

 例えそうであっても、襲いかかってこない理由にはならない。

 桜井には熊がどれくらいの知能を有する動物なのか、いまいち解らない。

 しかし、逃げられないように囮である自分を半殺し程度にする……それが熊にとって、この局面で最も利に叶った行動のはずである。

 少なくとも、こうして待つ意味はかなり薄い……そこで桜井は、茅野の言葉を思い出す。


 ……熊は基本的に臆病な動物。


「このスプレーにびびってる?」

 桜井はスプレーを持った左手を掲げ軽く吹いた。

 しかし、熊は何の反応も見せない。

 桜井の脳裏に何かが引っ掛かる。

「何だっけ……確か……循は……確か……」

 そのとき、背後の頭上から凛とした声が響き渡った。


「梨沙さん、迷迭香ローズマリーよ!」


 桜井はそのまま背後のベランダを見あげた。




 ベランダの手すりから下方を見おろした茅野の瞳に飛び込んできたのは、奇妙な光景だった。

 迷迭香ローズマリーの花壇の中で鉈と防犯スプレーを構え、勇ましく熊を見据える桜井。

 その数メートル先で熊は腰を落ち着けている。いっこうに桜井へと襲いかかろうとする気配を見せない。

「梨沙さんが無事なのはよかったけれど……」

 熊にとって、彼女へと襲いかからない意味は薄い……茅野は桜井とほとんど同じ思考を辿り、更にその先を行き、ある結論に到着する。


「梨沙さん、迷迭香ローズマリーよ!」


 茅野は叫んだ。

 桜井は身体を捻り、茅野の方を見あげた。

「ローズマリーがどうしたのさ!?」

「言ったでしょ!? 迷迭香ローズマリーは、魔除けの効果があるって……この悪霊は迷迭香ローズマリーが苦手なのよ! 恐らく、悪霊に操られた動物にも、その特性が受け継がれてしまうんだわ」

「あ……」

 桜井は鉈で迷迭香ローズマリーの枝を一本叩き切り、それを熊に向かって投げつけた。

 すると熊は慌てた様子で腰を浮かせて後ろにさがった。

「これは間違いないね……」

「ええ。だから悪霊には・・・・・・・自らの正体や・・・・・・弱点を示す・・・・・レコーダー・・・・・を処分する・・・・・事ができなかった・・・・・・・・

「なるほど……あの死体のポケットにはレコーダーと一緒にローズマリーが入っていたしね」

「そうよ。それから、あの録音されていた音源から推測するに、小見山氏がベランダから落ちた時、このレコーダーは花壇の迷迭香ローズマリーの中に落ちた。恐らく、それを見つけたのが、あの天井裏の遺体……頼子さんなのよ」

「なるほどねえ」と桜井は得心した様子で頷く。

「恐らく小見山氏もオカルトの専門家だから、迷迭香ローズマリーが魔除けになる事は知っていたけど、ここまで覿面てきめんの効果があるとまでは解らなかったのだわ」

「知っていたら、もう少し何とかなっていたかもしれないしね」

「そうよ。それで後からレコーダーを発見した頼子さんが、私たちと同じ疑問を抱き、この悪霊ディビューク迷迭香ローズマリーに弱い事を悟ったの」

 茅野はどや顔で熊を見おろす。

 すると、どこか悔しそうな唸り声が一つ、返ってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る