【09】逆転
桜井梨沙は帰ってこない。
「不味い……」
屋根裏の入り口の下でじっと睨みあっていた月輪熊が、
いくらなんでも遅すぎる。
屋根の上を歩く足音がいっこうに聞こえてこない。
茅野は歯噛みする。
いくら桜井が女子高生らしからぬ化け物じみた戦闘能力を有しているとはいえ、相手は熊である。
まともにやりあって勝てる訳がない。追いつかれた瞬間にゲームセットである。
嫌な想像が頭の中で膨らむ。
「やってくれるじゃない……サイコ熊」
茅野は歯噛みして、目潰しぐらいになるだろうと、白骨死体の握っていた殺虫剤のスプレーを左手に取る。
更に殺虫剤の中身がまだ入っている事を確認し、リュックの中から
熊は火を恐れないが、目潰しにスプレーをかけてから火炎放射を吹けば顔ぐらいは
……もっとも、そんなに都合よく事が運ぶとは茅野自身も思っていなかったが、丸腰よりはマシだ。
代わりに瓶をリュックにしまい、背中に担ぐ。
そうして、準備を整えた茅野は壊れかけの
そして彼女は悟る。
恐らくこれが熊の狙いであると……。
外に出た方を襲い、引き籠っている方を釣りだす……。
「……でも、釣られてやるわよ」
自ら死地に追いやってしまった親友を助けるために……。
茅野は獰猛な笑みを浮かべ、二階へと降り立つ。
辺りは不気味なほど静まり返っていた。
何の物音も聞こえない。
しかし、書斎の入り口の前に立った時、微かに遠くから熊の唸り声が聞こえた。
そっと室内を覗き込むが誰の姿もない。壊れた扉口の向こうのベランダにも……。
「梨沙さん……?」
茅野は恐る恐る書斎に足を踏み入れる。
また熊の唸り声が聞こえた。そこで彼女はベランダの手すりの支柱が壊れている事に気がつく。
「もしかして、ベランダから落ちた……?」
茅野はベランダへと出て、手すりから身を乗りだし真下を覗き込んだ――
――時間は数分前に
屋根によじ登っている余裕がないと判断した桜井梨沙は手すりから足を外してベランダから落ちた。
そのすぐ頭上を月輪熊の巨体が通り過ぎてゆく。
判断が数秒遅れていれば、腹に思いきり熊の頭突きを喰らっていた事だろう。
……ここまではよかった。
しかし、手すりの支柱を掴んだところ、それが見事に折れてしまい、流石の彼女も重力の持つ力には逆らえず落下を余儀なくされる。
桜井は花壇の
木質化して固くなった枝がざわざわとこすれて音を立てる。
「いてて……」
上着は長袖だったし、ハーフパンツの下にはレギンスを穿いていたのでダメージはなかったが、頬や手の甲に軽い引っ掻き傷を負ってしまう。
桜井は花壇の中で立ちあがった。
「くっ……」
右膝が痛んで顔をしかめる。もうまともに走る事もできなそうだ。
花壇から数メートル離れた場所で黒い巨体が唸り声をあげている。
「これはいよいよかもね……」
字面のみを見れば悲嘆にくれた言葉であった。
しかし、桜井は笑っていた。この危機的状況を……。彼女の瞳に恐怖や絶望の
その恐るべき黒い獣を見据えながら、右手で腰の鉈を……左手でハーフパンツのポケットに入れていた防犯スプレーを抜いた。
「きなよ。あたしの肉ならいくらでも喰らって構わないけど、お代は高くつくよ!」
せめて、
しかし……。
「……は?」
熊が突然、地面にぺたりと腰を落としてしまった。
そのまま動こうとしない。
「え? え……えっ?」
桜井は混乱する。
もしかして、自分を囮にして茅野循を
「……いや、違う」
例えそうであっても、襲いかかってこない理由にはならない。
桜井には熊がどれくらいの知能を有する動物なのか、いまいち解らない。
しかし、逃げられないように囮である自分を半殺し程度にする……それが熊にとって、この局面で最も利に叶った行動のはずである。
少なくとも、こうして待つ意味はかなり薄い……そこで桜井は、茅野の言葉を思い出す。
……熊は基本的に臆病な動物。
「このスプレーにびびってる?」
桜井はスプレーを持った左手を掲げ軽く吹いた。
しかし、熊は何の反応も見せない。
桜井の脳裏に何かが引っ掛かる。
「何だっけ……確か……循は……確か……」
そのとき、背後の頭上から凛とした声が響き渡った。
「梨沙さん、
桜井はそのまま背後のベランダを見あげた。
ベランダの手すりから下方を見おろした茅野の瞳に飛び込んできたのは、奇妙な光景だった。
その数メートル先で熊は腰を落ち着けている。いっこうに桜井へと襲いかかろうとする気配を見せない。
「梨沙さんが無事なのはよかったけれど……」
熊にとって、彼女へと襲いかからない意味は薄い……茅野は桜井とほとんど同じ思考を辿り、更にその先を行き、ある結論に到着する。
「梨沙さん、
茅野は叫んだ。
桜井は身体を捻り、茅野の方を見あげた。
「ローズマリーがどうしたのさ!?」
「言ったでしょ!?
「あ……」
桜井は鉈で
すると熊は慌てた様子で腰を浮かせて後ろにさがった。
「これは間違いないね……」
「ええ。
「なるほど……あの死体のポケットにはレコーダーと一緒にローズマリーが入っていたしね」
「そうよ。それから、あの録音されていた音源から推測するに、小見山氏がベランダから落ちた時、このレコーダーは花壇の
「なるほどねえ」と桜井は得心した様子で頷く。
「恐らく小見山氏もオカルトの専門家だから、
「知っていたら、もう少し何とかなっていたかもしれないしね」
「そうよ。それで後からレコーダーを発見した頼子さんが、私たちと同じ疑問を抱き、この
茅野はどや顔で熊を見おろす。
すると、どこか悔しそうな唸り声が一つ、返ってきた。
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