【02】黒い悪魔
木製の古びた電柱だけが等間隔で並んでいる。
それは、坂道の上にかつて人が住んでいた名残であった。
しかし、その土地に長年の間、人が立ち入っていないであろう事は、道の荒れ具合から容易に想像ができた。
「その小宮山さんのコレクションには、どんなのがあったの?」
桜井に問われ、茅野は記憶を辿る。
「覚えている物だと、ジェームス・ディーンが事故死した時に乗っていたと言われる“スパイダー550”の割れたミラー……第二次世界大戦中のドイツ軍が用いた
「うわお……豪華だねえ」
呪いのポルシェ、呪いのUボート、呪われた絵画……茅野から話を聞いていたので、桜井もそれぞれの逸話は覚えていた。
「かの有名な切り裂きジャックの愛用したナイフだとか狼男の体毛や本物のネクロノミコンなんて物もあったわね」
「ネクロノミコンって、志熊さん
「ええ。偽物でしょうね。……というか、コレクションのほぼ全てが偽物よ。小宮山氏は、そうした品を手当たり次第、高額をつけて蒐集していた事で有名だったの」
「ふうん。……人の趣味にとやかく言うつもりはないけどさ」
「それで昔、骨董品を鑑定するテレビ番組があったでしょ?」
「ああ、うん」
「あれに小見山氏が出演した事があったの。そこで小見山氏のコレクションルームにある、曰くつきの品々を鑑定したのよ」
「霊能者とかが?」
「いいえ。骨董や古美術の先生方ね。それで“切り裂きジャックのナイフ”はセラミック製で、ごく最近に製造された物である事が解ったわ」
「それは霊能力を使うまでもなく偽物だね」
「他の物も全部が似たりよったりの
「それは、いたたまれないね……」
桜井は何とも言えない表情で天を仰ぐ。
「それで、小見山氏の死を境に、一部のオカルトマニアの間で、その中に一つだけ
「成る程ねえ……その真偽を確かめようって訳なんだね?」
「そうよ。今は彼の別れた奥さんが館の権利者らしいのだけれど、彼女も消息不明になっているらしいわ」
「それは怪しい。……心霊の匂いがする……」
小見山の死後、その噂の真偽を確かめようとオカルト雑誌のレムリア編集部が彼女に取材を申し込もうとしたところ、連絡が取れなかったのだという。
「……館には、今も小見山氏の遺したコレクションの数々が眠っているらしいわ」
と、茅野が話を結んだ直後、目の前の景色が開ける。
そこは
その桜井と茅野がやってきた坂の入り口から向かって正面の奥に洋風の
「あれが、“蒐集家の館”だね……」
「そうよ。梨沙さん」
昔、外壁は白だったらしいが、ほとんどペンキは剥がれていた。
窓は全て外側から木板が打ちつけてあったが、テラス屋根の奥の玄関口は二枚の扉板が半開きになっており、簡単に侵入する事ができそうだった。
建物に向かって左の側面の二階には半円形のベランダが突き出ている。
「あのベランダから小見山氏は転落したのね」
茅野がそう言うと桜井はベランダの下……外壁から少し離れた場所にある花壇を指差す。
「……あの花壇にある木は何あれ? あんまし見たことないけど」
そこには一メートルぐらいの低木が無造作に枝を伸ばして茂みのようになっていた。
どうやら桜井は、幾つかの廃屋を巡るうちに庭木や園芸の植物にも多少は興味が出てきたらしい。
そんな彼女の知的好奇心に、嬉しそうに頷いて茅野は質問に答える。
「あれは
「ええ……あれが!? 料理に使うやつだよね?」
驚いた様子の桜井。茅野が右手の人差し指を立てて解説する。
「
「ふうん……」
と、桜井はいつもの曖昧な相づちを打つ。そして、再び館に目線を戻し、
「それにしても、中々、情緒があっていいねえ。いかにも“お化け屋敷”って感じでさあ」
「そうね。これは期待できそうかも……」
茅野は楽しげに笑いながらデジタル一眼カメラの撮影準備をする。
桜井もいつものようにネックストラップで吊るしたスマホを手に、蒐集家の館と呼ばれるその廃屋を撮影し始めた。
一区切りつくと……。
「それじゃあ、行きましょうか……」
「うん」
二人は館の玄関まで続く枯れ草の合間に延びた小道を並んで歩く。
そうして、あと数歩でテラス屋根の下に続くステップに辿り着こうとした、その時だった。
背後から聞こえてきた荒々しい息遣いが二人の耳をついた。
ぐるぐる……ごろごろ……と、まるで地鳴りのような唸り声も聞こえる。
「循……」
「梨沙さん……」
二人は同時に足を止めて、顔を見合わせる。そして、無言で頷き合うと、一斉に振り向いた。
すると、坂の入り口付近に、真っ黒な巨体がいた。
ゆさ……ゆさ……と、剛毛に覆われた体を揺らし、その大型の獣はやってくる。
黒目がちの輝く瞳。口元からちろちろと覗く舌と牙。
そして喉元には首輪のような白い模様……
流石の二人も真顔になる。
「梨沙さん。目を逸らしては駄目よ。ダイレクトに目を合わせ過ぎても駄目……ゆっくりと後ろ向きに玄関の中に入るわよ」
「りょーかい。こいつはくまったね……」
くだらないジョークを口にしてほくそ笑む桜井。しかし、そこにはいつもの余裕がいっさいなかった。
茅野と共に、ゆっくり……ゆっくりと、後方へ退く。
「おかしいわね……もう今の時期、とっくに熊は冬眠しているはずなのに」
「不眠症なのかもしれないよ」
「……案外、それが正解かもしれないわ、梨沙さん」
茅野が数十メートル先の黒い悪魔から目を逸らす事なく言う。
そこで二人の
その瞬間だった。
熊は天を仰いで凶悪な
桜井と茅野は悲鳴一つ漏らさずに、冷静に
茅野の後に桜井が飛び込んだ時には、黒い巨体は既に二人の後ろに迫っていた。
「くっ……!」
桜井が両開きの扉を閉めようとした。
二つの扉の間に、真っ黒な鼻先が割って入る。
……ふぐるぅ……ふぐるぅ……と捕食者は鼻を鳴らす。
閉まり切らない扉がガタガタと揺れ
「やばい……流石に……持たない……」
ガリガリと鋭い爪が扉板を引っ掻く音。
桜井は懸命に二枚の扉板を閉めようとするが今にも吹き飛ばされそうだ。
次の瞬間――。
「梨沙さん! 扉から離れて!」
茅野だった。
桜井は扉の取っ手から手を放した。同時に後方へと吹っ飛ばされて尻餅を突く。
扉がばたりと開いた。そこで茅野が入れ替わるように前に出る。腕を延ばし熊の鼻の穴にスプレーを接射した。
すると、恐るべき悪魔は、甲高い悲鳴をあげた。鼻先と前脚が引っ込む。
茅野は急いで扉を閉める。扉の向こうからは咳き込むような音とくしゃみが聞こえてきた。
「梨沙さん……大丈夫?」
「あたしは大丈夫だけど、熊避けスプレーなんて持ってたんだ……」
茅野は首を振る。そしてリュックから取り出したロープで二枚の扉板の取っ手を縛りあげる。
「違うわ。これは、いつも持ち歩いている防犯スプレーよ。成分はカプサイシンが主で油性だから、熊避けスプレーとはそう変わらないわ。……ただ」
「ただ、どうしたの……?」
桜井が首を傾げる。
「熊避けスプレーでも熊を撃退できない場合もあるらしいの。何せライフルの弾を食らっても突進を止めないような生き物ですもの……さっきは鼻孔に直接ぶち込めたからよかったけれど……次もスプレーが通じるかどうか……」
そうして茅野は、玄関の扉へと目線を向けた。
くしゃみと咳の音は未だに外から聞こえてくる。
「とりあえずさあ……どこかでほとぼりを冷まそうよ」
「そうね」
桜井の提案に茅野は頷く。
二人は玄関から延びた廊下の先へ向かった。
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