【05】三匹の蝿


 時刻は日をまたいでいた。

 普段ならばもう数寄屋たちが、はなれから帰ってきてもおかしくはない時間帯だ。そして相変わらず使用人たちも一向に姿を見せない。

 藤村は右手に真鍮しんちゅうの鍵を握り締め、左手には蝋燭の炎揺らめく燭台を持ち、はなれの入り口の前に立っていた。

 煮しめた牛蒡ごぼうのような色合いの引き戸。

 中から音は聞こえない。

 藤村はたっぷりと逡巡しゅんじゅんした後で控え目なノックをした。

「すいません……」 

 返事はない。

 ごくりと唾を飲み込み、取っ手に指をかける。施錠はされておらず、あっさりと開く。

 その瞬間だった。

「うっ……」

 凄まじい悪臭がした。まるで、ずっと放置していた金魚の水槽のような……。

「何だよ。これ……オェッ」

 燭台を掲げて室内を照らす。

 中はただ広いだけの板間で、まるで柔道場か剣道場のようだった。人の姿はない。

 部屋の隅にいくつかの背の高い燭台があったが、そこに刺さった蝋燭に火は灯されていなかった。

 そして、どこかで蝿が飛び回っているらしい。煩わしい羽音が微かに響き渡っていた。

 藤村は鼻や口元を手で覆いながら、一歩……二歩とはなれの中へと足を踏み入れる。

「床の隠し扉って……どこだよ……?」

 震える声で独り言ち、床板をつぶさに見て回ると部屋の中央に鍵穴を発見する。

 それは、そこに隠し扉があると知っていれば鍵穴だと認識できるが、知らなければ単なる床板に空いた穴だとしか思えない絶妙さだった。

「この下に……?」

 この下に秘密の地下室でもあって、そこで禍つ箱を作っているのだろうか。

 その秘密の地下室に姿を消した使用人たちも……。

 藤村は控え目な声で床に向かって呼びかける。

「数寄屋さん……」

 返事はない。今度はもう少し大きな声で……。

「数寄屋さんっ!」

 やはり返事はない。

「数寄屋さん、開けますよ?」

 藤村は屈んで鍵穴へと真鍮しんちゅうの鍵を差し込もうとした、その瞬間だった。

 左足の爪先から少し離れた床の上に、ポトリと黒い粒が落ちた。

 藤村は手を止めた。

 最初は自分の汗だと思ったそれは、一匹の蝿だった。

 裏返り、腹を見せて六本の脚を丸めて、動こうとしない。

「蝿……?」

 ふと頭の上から羽音が聞こえた。藤村は天井を見あげ、燭台を掲げた。

 すると天井付近に蝿が渦を巻いて飛んでいた。一匹、二匹……。

 その蝿が、ぽた……ぽた……と、落下し始める。まるで、殺虫剤でも吹きかけられたかのように、唐突に。

「な……何だよ。これ……」

 額に汗が滲む。

 本能が警鐘けいしょうを鳴らす。

 何かが起きている。悪い意味で特別な何かが。それが何なのかは解らない。

 しかし、少なくとも蠅の命を奪うものが、この周辺に渦巻いている事は確実だった。

 数寄屋によれば、禍つ箱製作は命を失う事もある危険な作業なのだという。

 何か手違いが起こって、取り返しのつかない事故でもあったのかもしれない。それを終息させる為に使用人たちも地下室へ。結果的に木乃伊ミイラ取りが木乃伊になったのでは……。

 嫌な想像がどんどんふくらんでゆく。

 藤村はもう一度、鍵穴を見下ろす。

 早くこの場から逃げ出すべきなのではないか。藤村は迷う。

 しかし、同時に数寄屋の言葉が脳裏を過る。



 『……お前は俺より頭がよいし、案外キモも座っている。それと何より誠実で信頼が置ける』


 『この国を……いや、世界を、お前が変えるんだ』


 『……こいつなら、俺を銀貨三十枚で売ったりなんかしねえ』



「数寄屋さぁん……買いかぶりですよぉ……」

 藤村は、その場に膝を突いた。

 『本気で、この国を変えたい』……そんなのは嘘だった。

 振りあげた拳を何かに叩きつけたかっただけだ。

 大きな熱狂の波に身をやつし、安心したかっただけだ。自分は独りじゃないのだと……。

 これまで数寄屋に心酔し、行動を共にしていたのも、破天荒はてんこうで無法者の彼に憧れていただけだ。

 その理念に共感していた訳ではない。

 ……藤村は燭台を床に起き、神に祈るかのようにうずくまる。

「……数寄屋さぁん……何で俺なんすか?」

 彼と出会ったのは、一年半前の大学へ入学したての頃だった。同郷の先輩に無理やり連れていかれた喫茶店で初めて顔を合わせた。

 以来、なぜか気に入られて、よくしてもらっている。

「数寄屋さぁん……」

 もう一度、彼を呼ぶ。

 しかし、その瞬間、藤村の脳裏を過ったのは数寄屋の顔ではなく、あの豆腐屋の娘の顔だった。

 藤村は立ちあがると、床に転がる三匹の蝿を見つめて――






 九月二十七日(土)


 使用人たちはいなくなったまま。数寄屋たちも戻ってこない。

 靴は全員分が残っている。朝食は用意されていた。

 はなれは酷い悪臭。飛んでいた蝿が勝手に落ちた。何か恐ろしい事が起こっている。

 あの床下の隠し扉を開ける勇気はなかった。

 早朝、日の出と共に家を出る。山を下りふもとの町から電車で高崎へ。そのまま上野まで戻る。


 





 二〇一九年十一月二十日。

 九尾天全は膝の上で開いていたノートを閉じると一息吐いた。

 結局、丈昭は真鍮の鍵ではなれの床にあった扉を開けようとしなかった。

 それから、東京へと戻ったらしい。

 以来、学生運動からはぴたりと足を洗い、程なくして豆腐屋の娘であった木本幸子きもとさちことの交際をスタートさせた。

 藤村丈昭は、こうして日常への回帰を果たしたのである。

 以降、このノートの最後まで数寄屋満明という名前は一回も登場していない。

「なぜ、数寄屋や使用人たちは、いなくなったのかしら……?」

 全員が触媒しょくばいになった……訳ではないだろうと九尾は考える。

 使用人が何人いたのかは日記に記載きさいはないが、禍つ箱の触媒は最大量でも七合だ。何人もの人間が一度に必要になる事などない。

 不測の事態が起こり逃げ出した……これも違うだろうと、九尾は首を横に振る。

 日記の『靴が全員分あった』という記述が事実ならば、使用人らは裸足で逃げ出した事になる。

 更に残された丈昭が結局生きている事から、そこまで切迫した事態が起こっていたとも思えない。

「うーん……これは、もう少し調べてから現地入りした方がよさそうね」

 九尾は充電しっぱなしだったスマホを手に取ると電話をかけ始めた。

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