【02】ゲッセマネ
藤村幸子が帰った後で、九尾は客間のソファーに腰を埋め、借り受けた日記を開いた。
ノートをパラパラと開くと、殆どが一行か二行程度で『快晴。とろろ芋、美味。インク瓶を割る。不快』などと、本人にしか意味の通らない散文的な記述ばかりであった。
しかし、それでも確認しうる限りでは一日も休まずに書かれている辺りに藤村丈昭の真面目な人柄が
そんな中で、よく登場したのが数寄屋満明という名前だった。
乏しい情報から、彼がどんな人物であったのかはほとんど知る術はなかった。
しかし、丈昭はずいぶんと彼に心酔していたらしい。
九尾には、この数寄屋と丈昭の関係がカルト教祖とその狂信者のように思えてならなかった。
そうして、日記の中の季節は、春になり、夏が終わり……くだんの九月十九日……藤村丈昭が隠首村へ向かった日に辿り着く――
一九六九年の九月十九日金曜日。
藤村丈昭は昼前に上野の不忍池口で数寄屋と瀬川の二人と待ち合わせ、電車に乗って高崎まで向かった。
車中で藤村が聞いたところによると、隠首村は数寄屋の生まれ故郷なのだそうだ。
禍つ箱の製作は、その数寄屋の実家で行われるとの事。
そうして高崎に着くと、駅前から迎えにやってきたトヨタのワゴンに乗り込んで国道十七号を走り、県境の山沿いを目指した。
ワゴンの運転手は
そうこうして、彼らが山間にぽっかりと空いた猫の額のような盆地に広がる、その村へと到着を果たしたのは、とっぷりと日が暮れた後だった。
街灯はほとんどなく、田畑の中に佇む家々の明かりがぼんやりと闇に浮かんでいる。
この日の夜空には雲が掛かっており、月明かりも星の輝きも見えない。
村内を横切る未舗装の道をガタガタと走るワゴンの車窓に映し出されたその光景を見て、藤村は不思議な心地がした。
数寄屋満明が生まれた場所……。
一見すると支離滅裂な言動を繰り返す彼であったが、その考え方は革新的で都会的とも言えた。
彼には、こんな田舎はにつかわしくない……ぼんやりと藤村は、そんな事を考えていた。
すると、数寄屋がまるで心を見透かしたかのように笑う。
「この村はなぁ。特別だ」
「特別?」
藤村が聞き返すと数寄屋は頬杖を突いて車窓を覗き込みながら語る。
「この村は龍の背中にある。それもちょうど
数寄屋は肩を揺らして笑う。
逆鱗とは中国の
藤村は「どういう意味ですか?」と尋ねるも、数寄屋は肩をすくめるばかりで何も答えてはくれなかった。
そうこうするうちにワゴンは、
まるで昔の武家屋敷といった様相である。
「ここが、俺の家だ……」
ワゴンから降りた数寄屋が、まるでどうでもいい事のようにぶっきら棒に言った。
以前より、数寄屋の金回りがやたらとよい事に、藤村は疑問を抱いていたのだが、その答えが目の前にあった。
しかし、これも数寄屋らしくない。
まるで異世界に紛れ込んだかのような違和感に、藤村が戸惑いを見せていると、玄関から使用人とおぼしき者たちが何名か現れる。
「荷物をお持ちします」
そう藤村に言い寄ったのは、まだ十代とおぼしきあどけない顔の田舎娘だった。彼女に旅行鞄を手渡す。
そして、数寄屋が使用人に荷物を手渡しながら無邪気に笑う。
「藤村は家に来るの初めてだったな。まあ、あがれよ。今日はゆっくりと酒でも酌み交わそう。革命の前祝いだ……」
その後、藤村たちは使用人に案内され、屋敷の大広間に通された。
大広間には、既にお膳が並べられており、九名の者が席に着いていた。
全員が藤村の知らない顔で、三十代から五十代近くの男だった。
格好は和装、背広姿、袈裟……様々である。
みんな押し黙っており表情は暗い。まるで通夜の席のようだと藤村は思った。
その九名は数寄屋の姿を見るなり、そろって頭をさげる。
それを見た数寄屋が右手をあげて答えた。まるで殿様か何かのようだと藤村は思った。
空いている席に座るように
「ここにいるのは全員が禍つ箱作りに携わる
「はあ……」
藤村は気の抜けた相づちを返す。そして、その呪い師たちが全員、自分に視線を向けている事に彼は気がつく。
まるで、値踏みされているかのような……内心では
そんな藤村を、数寄屋は右手で指し示す。
「こいつは藤村。……俺の後輩だ。こいつなら、俺を銀貨三十枚で売ったりなんかしねえ」
冗談だったのだろうが、誰も笑わなかった。
何となく気まずくなって藤村はぺこりと頭をさげると、呪い師たちが一斉に返礼する。
そこで数寄屋が、ぱん、と両掌を叩いた。
「それじゃあ、飯だ。食うぞ」
こうして、九名の呪い師に加え、遠藤、瀬川、数寄屋、藤村の十三名による晩餐が始まった。
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