【06】姉妹喧嘩


 その日、黒井誠くろいまことは、夕方頃に起床した。この日は久々の休暇で、前日の夜にしこたま飲み過ぎたせいか頭が重い。しばらくの間、布団の中でもたもたする。

 二十分後、のそのそと起きあがり、布団を適当に畳み、枕元の床に置いてあった飲み差しのミネラルウォーターのペットボトルを一気な空けた。

 それから学生時代から暮らしているワンルームを見渡し、ゴミ袋や段ボールの群れの中から脱ぎ散らかした衣服を手に取って身支度を始める。それが済むと、財布と携帯を持って外に出た。

 しっかりと施錠して、二階の外通路を渡り、階段を降りる。アパートの前を横切る路地に出て、そのまま徒歩五分のところにあるコンビニを目指そうとしたところで背後から声を掛けられた。

「すいません」

 振り向くと、そこには見知らぬ女が立っていた。

 シックな色合いのワンピースとスプリングコート。

 ダークブロンドの髪とはっきりした目鼻立ちは異国の血を感じさせた。全体的に小綺麗で清潔感のある美人といった印象である。

 はて、こんな美人が何のようだ……と、黒井が首傾げていると、女はアパートの方へと視線を向けてから質問を発する。

「えっと、このアパートの202号室に住んでらっしゃる方でしょうか?」

 それは黒井の部屋番号であった。つまり、この美女は自分に用があるらしいと知り、彼は困惑と嬉しさ半々の心持ちになりながら「ええ。そうですが」と肯定の返事をした。

 すると、女は少し言葉を選んでから口を開いた。

「……あの、熊のぬいぐるみなんですけど」

「は!?」

「いや、その……茶色で、五十センチくらいで、ここに」と言って、女は自分の右耳を触る。

「黄色いタグが止めてあるぬいぐるみなんですけど」

 最初は女の話に心当たりがなく、困惑していた黒井であったが“黄色いタグ”という言葉で、すべてを思い出す。

「あ……ああ」

「心当たりがあるんですね?」

「ああ、うん」

 と、黒井は頷く。

 それは、まだ彼が大学生の頃だった。カナダのケベックシティにホームステイした事があり、そのホストの家で譲り受けたものだった。

 もともとはドイツ移民の曾祖母のものらしく、黒井は『そんな、貴重なものは受け取れない』と拒否したのだが、どういう訳か無理やり押し付けられてしまったのだという。

「……ずっと、旅行鞄に入れてあって、それで、確か……そうだ。フリーマーケットで売ったんだ」

「それは、いつの話ですか?」

 その質問に、黒井は眼球を斜め上にして記憶を辿る。

「……確か、二年前かそれぐらい前だと思ったけど」

「なるほど」

「で、その熊のぬいぐるみが何なの?」

 と、黒井が尋ねた。すると、女は誤魔化すように笑って、

「いいえ。ちょっと、知人から、そのぬいぐるみを探して欲しいって、頼まれてまして」

「ふーん」と、黒井は生返事で答えた。

 あのぬいぐるみはアンティークとして価値のあるものだったのかもしれない。安値で売ってしまった事を黒井は内心で後悔した。

 それから、フリーマーケットを開催した場所と購入した母子について覚えている限りの事を話して、黒井は女と別れた。




 その日の夜だった。

 ダイニングのテーブルで向き合って食事をする岡田姉妹。

 肉じゃが、茄子なす胡瓜きゅうりの糠漬け、バラ肉の牛蒡ごぼう巻き、豆腐の味噌汁など……。

 もちろん、九尾作であった。因みに世花の料理の腕は壊滅的である。

 ともあれ、それらの料理を双方がだいたい半分くらい食べ進めたあとだった。九尾は話を切り出す。

「世花……」

「何?」

 膨らんだ頬をもぐもぐと動かしながら世花が応じる。

「あの家の二階の部屋の窓際に置いてある熊のぬいぐるみの事なんだけど」

 世花は手を止めて、口の中のものを飲み込んだ。味噌汁をすする。

「……知ってたんだ」

「何で言ってくれなかったの? わたしに」

「いや、その、あの……」

 世花はしどろもどろになり俯く。

「……あの家の住人が何らかの霊障にあっているのね? その原因が例の熊のぬいぐるみに取り憑いた何か……違う?」

 黒井という大学生から聞いた話によれば、彼がフリーマーケットで売ったぬいぐるみは、例の窓際に置かれていたもので間違いないようだ。

 そして、彼もまた留学先の家族から、押しつけられたのだ。あの曰くつきのぬいぐるみを……。

「あれくらいの霊だったら、簡単に祓えるでしょ?」

「あの……いや、その……ちょっと」

 相変わらず世花の口から出てくる言葉は要領を得ない。九尾の心中に苛立ちが募る。

「……ねえ、世花」

「何?」

「わたしって、そんなに頼りない?」

「いや、違」

「もしかして、わたしなんか、“九尾天全”になれないって思ってる? 一緒に力を合わせても、私とじゃあ、お父さんのようにやっていけないって思ってる!?」

 霊能者として多忙な毎日を送り、家を留守にしがちだった、先代の九尾天全にして父でもある岡田春麻との思い出は、それほど多くはない。

 しかし、それでも彼を尊敬していたし、彼のような霊能者になりたいと、九尾は思っていた。

 同時に、自分の才能では父のような霊能者になれない事も自覚していた。

 たがらこそ、自分の足りない部分を補ってくれる、血を分けた片割れの存在が是非とも必要だと九尾は考えていた。

「……どうなの? 答えて!?」

「いや、そんな事は……」

「じゃあ、どうして、わたしに秘密にしていたの!? ねえ!?」

 次の瞬間、九尾はつい声を荒げてしまった事を後悔する。

 案の定、世花は下を向いたまま、モゴモゴとしていた。

 もう、こうなってしまっては、しばらくコミュニケーションを取る事は不可能となる。

 九尾は大きく肩で息を吐いて「ごめん」と、謝罪の言葉を述べた。

 そのまま、両者一言も口を利かずに夕御飯の席は終わった。

 そして、九尾がお椀や皿を重ねて腰を浮かせたのと同時だった。

「……ごめん」

 世花が下を向いたまま、ぽつりと呟いた。九尾が立ち止まる。

 すると、世花は涙を浮かべた上目遣いで九尾を見あげて言った。

「……恵麻に頼ろうと思ったけれど、何て説明したらいいのか解らなくて。それに、ちょっと、よく解らないところもあって……整理できてなくて……」

 九尾は天井にできた蛍光灯の影をしばし見つめながら思案したのち、口を開いた。

「例の熊のぬいぐるみの霊を祓ってお仕舞い……事態は、そう単純ではないのね?」

 世花は首肯して口を開く。


「あの熊のぬいぐるみは……」

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