【08】対決


 二時間前――


 赤牟市中央町のアパート『エスペランザ伊藤』二〇四号室だった。

 吉澤万里江よしざわまりえは、いつも通り目を覚ます。

 スマホで時間を確認するとメールが届いていた。別れた元夫である亮一から送られた物だ。

 どうせ、あの人形の話だろう。

 万里江はメールの中身を見ずに、スマホを置いて起きあがる。身支度みじたくをして朝食の用意をし始めた。

 彼女は倖田亮一と離婚してから、実家に戻るのもプライドが許さず、ずっとこのアパートで暮らしていた。

 幸い高校の同級生のつてで、市内にある建設会社の事務職に就く事ができた。

 そして、一昨年のクリスマスから、その同級生との交際をスタートさせた。すべては順風満帆で上向きであった。

 しかし、つい最近の事だ。別れた夫からあのメールが送られてきたのは……。


 『エリは、まだ壁の中で生きている』


 万里江は馬鹿馬鹿しいと鼻で笑って取り合わなかった。

 しかし、それからというもの、夫から頻繁にメールや電話がくるようになった。

 完全に狂っている……。

 万里江は元夫の言動におののいた。

 警察に相談しようかとも考えた。

 しかし、警察はしつこく電話やメールがくる程度で動いてくれないのだと、どこかで聞いた事があった。

 そもそも、あの人形の事をどう説明したらよいのか解らない。

 取り合えず現在の恋人のアドバイスで、夫の電話やメールはすべて無視し、いざという時の為に記録は残しつつ、様子を見ている段階だった。

 本当についていない。

 すべては上手く行きかけていたのに、何て事だと万里江は思う。

 もう、亮一とあの家で暮らしていた頃の忌まわしい記憶は薄れつつあるというのに……。


 ある日、出張から帰ってきた夫が家に連れて帰ってきた少女。

 それが生きた人間ではなく、人形だと気がついたのはいつの事だっただろうか……。

 思えば普通なら、夫が見知らぬ少女を連れてきた時点で警察なりに連絡するべきであった。

 しかし万里江にはなぜか、そうする事ができなかった。

 あの人形は狡猾こうかつで、人の心の隙間にいともたやすく入り込んでくる。

 碧い瞳……傷だらけの白い肌……か弱い目鼻立ち……。

 そのすべてが人間の庇護欲ひごよくあおり立てるように計算され尽くしているかのようだった。

 あれを誰が何の為に作ったのかは解らない。しかし、万里江は確信していた。

 制作者があの人形に込めたのは悪意である……と。

 もしかしたら、その制作者は、人間ではないのかもしれない。万里江は何となく、そんな気がした。

 少なくとも、まともな人間にあんなものを作れる訳がない。

 喋り、動き、人を惑わす人形など――




 キッチンで熱したフライパンに卵を二つ割り落としたその時だった。

 インターフォンが鳴る。

 万里江はコンロの火を止め「はーい」と返事をした。卵の白身が余熱で曇る。

 万里江は玄関へと向かった。チェーンをかけたまま扉を開ける。

 すると、扉の隙間の向こうにいたのは、元夫の亮一であった。万里江は、はっとなり息を飲む。

「万里江……」

「あら。あなた。こんな朝からどうしたの?」

 万里江はつとめて冷静にそう言って思考を巡らせる。

 流石にこんな場所で夫も滅多な事はしないだろう。むしろ大声でもあげて暴れてくれた方が、警察を呼ぶ口実にもなる。そう考えていた。

 そんな元妻の思惑に気がついた様子もなく亮一は言う。

「お前は、何で返事をよこさないんだ?」

「返事?」

 万里江はわざとすっとぼける。

「メールだよッ!! 電話もしただろ!?」

「ああ……その、忙しくて」

 その言葉を聞いた亮一の表情が悪鬼のように歪む。

「忙しい、だと……?」

「あの……今も忙しいから……」

 恐怖を感じた万里江は扉を閉めようとした。しかし、亮一は既に扉の隙間に足をはさんでいた。

「ちょっと! やめて! 警察呼ぶよ?」

「警察を呼ばれて困るのはお前だろ……」

「何を言っているの!? 本当に警察呼ぶから!」

 万里江は隣家に聞こえるように、わざと声を張りあげた。

 すると亮一も怒鳴り声をあげる。

「エリを殺したんだぞ? お前は!」

 こうなると、もう止まらなかった。万里江は亮一を睨み返す。

「五月蝿いわねッ!! あんな人形が何だって言うのよ!!」

 そこで亮一の表情から感情が消える。それこそ、人形のようだった。

「……な、何よ?」

 たじろぐ万里江。

 すると、亮一は無表情のまま、淡々と言葉を紡いだ。

「エリは人形じゃない」

 亮一は扉の影に隠れていた右手を振りあげた。

 そこには鉈が握られている。万里江は視線をあげたまま固まる。

 その彼女の額を、振りおろされた重い刃が叩き割った。

 亮一は鉈を引き抜き、素早く扉を閉めた。

 万里江は膝を折り糸の切れた人形のように扉にもたれかかり、崩れ落ちた。

 玄関の扉が赤い飛沫で汚れ、額の裂け目から溢れた鮮血が三和土たたきに広がる。

 この二十分後、恐る恐る様子を見にきた燐室の住人が万里江の変わり果てた姿を発見し警察に通報した。

 こうして平穏な田舎だった赤牟市は、蜂を突っついたような大騒ぎとなった。




 がつん……と、鉈の刃が扉から突き出る。

「循……」

「どうやら、あの扉の向こう側にいるのが誰であれ、まともではないようね」

 がつん……がつん……と鉈が扉板に叩きつけられる音が鳴り響く。

 扉板が裂けて隙間ができる。その向こう側から男の顔が覗いた。

「エリぃい……助けにきたよぉ……」

 大きく見開かれた血走った瞳が、ぎょろっ、ぎょろっ、と動き室内の様子を見渡す。

 釣りあがった口の両端には、乾いた唾の痕がついていた。

 どう見ても狂人である。

「循……さがってて」

 桜井に言われた通り、茅野はデジタル一眼レフを構えたまま壁際まで後退する。

「気をつけて、梨沙さん」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 その桜井の声音は極めて呑気で、まったくおくした様子はなかった。

 そして、扉の向こうの男が、扉板にできた隙間から腕を入れてサムターンを回す。

 扉が開く。

 男は桜井の足元に寝かされていた人形を見るやいなや言い放つ。

「俺の娘を返せッ!!」

 右手の鉈を高々と振りあげて、桜井に向かって突っ込んできた。

 桜井はとっさに人形の腰を持って、頭上にかかげた。

 すると、男は振りおろそうとしていた右手の鉈をぴたりと止める。

「貴様ぁああー!!」

 人形を盾に使われた事に憤慨ふんがいする男。

 桜井の身体がひるがえる。

 茅野の足元へ人形を放り投げながら一回転。

 男の鳩尾に左足のかかとを叩きつける。

 流麗な動きの中段回し蹴りであった。

「うぐっ……」

 男が膝を突く。

「はあーっ!」

 やや間延びした気合いのかけ声と共に男の鼻っ柱に正拳突きを一閃。

 前歯が折れ鼻血がき出す。両目が白く裏返った。

 男はそのまま、のけ反って倒れる。

「ふうー……」

 拳を引いて、ゆっくりと息を吐き出す桜井。

「流石ね」

 茅野は、ぱらぱらと拍手を贈った。

「やっぱり、最近、膝が絶好調なんだよ!」

 桜井は、にっかりと笑って茅野にブイサインを送った。




 この後、桜井と茅野は気絶した倖田を持参していたロープで拘束する。

 人形は膝を抱えた状態でダクトテープでぐるぐる巻きにし、地下室にあったビニールシートで茶巾包ちゃきんづつみにした。

 ささやく家を脱出し、二社地区の公会堂の軒下にあった公衆電話から、廃屋の前に怪しい車があると警察に通報し帰路に着く。

 その後、すぐに駆けつけた警官らに倖田亮一は逮捕された。

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