【04】反抗期

 唖然とする田村。

 塚本は無言でソファーから腰を浮かせると、割れた花瓶を片付け始めた。 

 そして、モップで濡れた床をふきながら、落ち着いた声音で語り始める。

「一九〇六年、南アフリカのクララ・ゲルマナ・セレという少女が悪魔に憑りつかれた際、本来の彼女が知るはずのないポーランド語やフランス語を話し始めたといいます」

 そこで、言葉をいったん切って、塚本はゴミ袋に紫丁香ライラックの花を入れ始める。

「……娘さんの置かれた状況は、この事例に極めて近いものだと思われます」

「悪魔……」

 あらゆる悪徳の擬人化。

 人を悪の道へと誘惑する伝説上の存在。

「このままだと、娘さんは、大変よくないでしょうな」

「よくない……とは?」

 田村が恐る恐る口にした質問に答える事なく、塚本はいったん、ゴミ袋やモップを持って退室する。

 それから数分後、再びリビングに姿を現した。その手には木箱が持たれている。

 ティッシュボックス程度の大きさで、蓋の表面には精緻せいちな細工が施されている。

 それを座卓の上に置くと、田村の向かいに腰をおろして口を開いた。

「悪魔の最終的な目的は人間の魂です」

「魂!? という事は……」

 大きく目を見開き、唇を震わせる田村。その彼女の言葉に、塚本は鷹揚おうような調子でうなずく。

「きっと、そのぬいぐるみは、何らかの魔術により、この世と地獄を繋ぐ門となっているのでしょう。その門を通じて悪魔は現世に姿を現そうとしている。ただ、そうするには、器が必要となります。器というのは、もちろん、あなたの娘さんである佳音さんの事です」 

「そんな……」

 田村はこのとき、三年前にあのぬいぐるみを佳音に買い与えた事を心の底から後悔した。

「このままでは、娘さんは命を落とし、死後、その魂は地獄へと持ち去られてしまう事でしょう。そうなってしまえば、娘さんの肉体は悪魔の意のままになってしまう。そうなれば、もう何もかも手遅れとなります」

「ああ……あぁ……あぁあ……」

 田村は青ざめた顔で唇を戦慄わななかせ、言葉にならない声をあげた。

 そんな彼女に向かって塚本は、ニヤリと不敵な笑みを見せる。

「……ですが、御安心を」

 そう言って、塚本は座卓の上の木箱を開ける。

 そこには、銀色に光る十字架のペンダントが納められていた。

「この十字架アンクには、高い霊力が宿っています。少々、値が張るものですが、これを是非とも娘さんに……」

「買います!」

 値段を訊ねるより先に、その言葉が口を吐く。田村は更に質問を続けた。

「あの、塚本先生」

「何でしょうか?」

「あの熊のぬいぐるみは、いったいどこに消えたのでしょうか……」

 塚本は少しだけ思案顔を浮かべたあとで、己の見解を述べる。

「……恐らくまだ家にあるはずです。見つけ次第、すぐに燃やしてください」

「そんな事をして大丈夫なのでしょうか?」

 不安げな田村の言葉に対して、確信に満ちた様子で頷く塚本。

「……ええ。一刻も早く」

「解りました」

 と、田村が返事をすると、塚本はにこやかな笑顔で腰を浮かせる。

「……では、聖なる十字架アンクのご購入申し込みの手続きをお願いいたします。今、書類とペンをお持ちしますので」

 そう言い残して、再びリビングから姿を消した。




 田村有加子は塚本神山から購入した聖なる十字架を持って、急いで帰宅する。

 ガレージに車を入れて、急いで玄関へと向かった。扉を開けて靴を三和土たたきで脱ぎ散らかす。

 すると、内山が現れる。

「あら、奥様、お帰りになったんですか」

「内山さん、佳音は?」

「お部屋で眠っておられますけど」

 その言葉を聞くやいなや、二階へと向かう田村。階段を上り、佳音の部屋の前に立つと、有無も言わずに扉を開けて部屋の中に入る。

 まず目に入ったのは、ベッドの上で安らかな寝息を立てる佳音。そして、窓台の上に並ぶ、ぬいぐるみたち……。

 その中に、旅行鞄の中へと入れたはずの、あの熊のぬいぐるみがあった。

 それを見た瞬間、田村は怖気おぞけのあまり、顔をしかめる。

 まずは、あのすべての元凶となった禍々しい存在を、一刻も早く処分しなくてはならない。

 そう考えた田村は、すぐさま窓際に駆け寄り、熊のぬいぐるみを片手で鷲掴みにすると、再び部屋の扉口から外へと出ようとした。

 すると、その直前で背後から熊のぬいぐるみを、ぐいっ、と引っ張られる。

 足を止めて振り返ると……。

「佳音……」

 ベッドで寝ていたはずの娘が、いつの間にかそこにいた。

 怒りに満ちた顔で自分を見あげる娘に、田村は一瞬だけ、たじろぐ。

 すると、佳音が口を開いた。

「いひへるふぇでぃあいえっつと」

 それは、まったく意味の解らない呪文のような文言であった。

 田村は驚きのあまり目を見開く。

 すると、その隙に佳音は熊のぬいぐるみを勢いよく引ったくった。

「佳音!」

 そのまま、肩から体当たりをして母親の身体を部屋の外へと押し出した。

 よろけた体勢を立て直す田村。

 同時に扉が閉められ、室内から施錠の音が鳴り響く。

「佳音! 佳音! どうしたの!? ここを開けて!?」

 扉板を必死に叩くも応答はない。

 田村は直も声を張りあげ続けた。

「……佳音、その熊のぬいぐるみをお母さんにちょうだい! そのぬいぐるみは危険なの。ねえ、お願い!」

 すると、扉の向こうから佳音の叫び声が聞こえた。

「駄目! いくらママの言うことでも、この子・・・は違うもん! 友だちだもん!」

 聞き分けがよく大人しい娘が、自分にこれほど逆らった事は、これまでに一度もなかった。

「佳……音……」

 あまりの衝撃に愕然とし、その場で膝を突く田村。

 そこへ、物音と声を聞きつけた内山がやってきた。

「……どうされたのですか!? 奥様」

 田村は彼女に支えられて、どうにか立ちあがると、いったん一階のリビングへと移動した。

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