【01】転落事故
二〇一〇年、三月半ばのある日。
その子供部屋の陽当たりは良好であった。
窓台の上では、
「……ごめんね? お母さん、もう行かなきゃ。少しだけ独りで
田村はベッドの脇で膝を突いて、病床に着いた自らの娘と目線を合わせた。
相変わらず仕事は順調で多忙な毎日を送っていた彼女であったが、この日の前日、七歳になる娘の佳音が学校で給食の後に
急遽、仕事の予定を切りあげて病院へと連れていったところ、アセトン
この病気は、幼児に多く発症する病で、ストレスが引き金となって起こる事が多い。
数時間から数日の間、何度も嘔吐を繰り返し、頭痛や腹痛などに見舞われる。命の危険に関わる事は、ほとんどないが、明確な治療法は存在しない。かつては自家中毒などと呼ばれていた。
「……もうすぐで内山さんが来てくれるから。それと、気持ち悪くなったら、この洗面器に、ゲーしなさい。解った?」
そう言って、田村は娘の額をそっと撫でて前髪を整え、立ちあがる。
すでに娘の病状は落ち着いていた。これならば、ちゃんと静養すれば大丈夫だろう。
田村は、そう軽く考えた。
「それじゃあ、ゆっくり休んでね?」
その母親の言葉に佳音は無言で
そして、田村はひらひらと娘に向かって手を振ったあと、扉口へと向かう。去り際、まるで自分に言い聞かせるかのように何気なく独り言ちる。
「……大した病気じゃなくて、ほっとしたわ」
それから、娘の部屋をあとにすると階段を降りて玄関へと向かった。ヒールの高い靴へと
施錠をして、玄関ポーチのステップを急ぎ足で降り、
そこでふと、右後の二階にある娘の部屋へと目線を向けた。
すると、窓枠の向こうに娘の姿があった。
「……あの子、ちゃんと、寝てなさいっていったのに」
田村は呆れた様子で溜め息を吐いた。
その直後だった。
佳音がおもむろに窓を開けた。
「どうしたの? ちゃんと寝てなさいって言ったでしょ!?」
その言葉を言い終わる前だった。
佳音が窓枠に両手をついて右足を乗せた。それを目にした田村は大きく目を見開く。
「……ちょっと、何をやってるのよ!?」
佳音は、その母親の言葉に答える事なく窓枠を乗り越えて、空中へと身投げした。
そのまま、小石が転がる硬い地面に頭部から落下する。
「佳音!!」
田村の叫び声。
その直後、どさり、と嫌な音が鳴った。
よれたデニムのパンツと、タータンチェックのネルシャツ、履き古したスニーカー。ダークブロンドの髪の毛と、異国の血を感じさせる目鼻立ちは整っていたが、どうにも覇気に欠ける。
名前を岡田世花といった。
歳は十八。つい先日、高校の卒業式を終えたばかりである。
このときの彼女は、何やら思索を巡らせ、暗い顔で溜め息を吐いてばかりいた。
その原因は数十分前の事。
双子の姉妹である九尾天全から、亡き父親の跡を継いで霊能者として身を立てていかないかと誘われた。
きっと、面倒見のよい九尾は頼りない世花の将来を案じてくれたのだろう。その事については、素直にありがたいと感じていたが、どうにも乗り気になれなかった。
確かに九尾はせっかちで思い込みの激しいところはあったが、何をやらせても器用にこなし、優秀で頼りになった。彼女と一緒ならば、どんな事でも上手くいきそうな気がした。
しかし、自分は違う。世花は大きな溜め息を吐いて肩を落とす。
幼い頃から父の仕事振りを目にしていたが、とてもじゃないが九尾と力を合わせたとしても、上手くこなせるとは思えなかった。
「……どうせ、足手まといになるに決まってるって。わたしなんかさ」
などと、独り言ちながら、住宅街の只中をとぼとぼと歩く世花。
そんな彼女の右手に、よく手入れがなされた
そこで世花は、いい加減に首が疲れてきたので顔をあげた。
すると、次の瞬間だった。
「……ちょっと、何やってるのよ!?」
という、叫び声が聞こえた。
反射的に、その声が聞こえた方へと世花は視線を向けた。
それは、躑躅の生け垣の向こう側だった。
その奥に建つ立派な邸宅の二階の窓から、寝間着姿の少女が飛び降りた。
「佳音!!」
玄関前にいた母親らしき女性の絶叫。
そして、庭先の地面に落下する少女。
直後に嫌な音が轟く。
母親らしき女性が地面に倒れたまま、ぴくりとも動かない少女に駆け寄る。
そして、この世ならざる存在を見通す事のできる世花の瞳には、少女が飛び降りた窓枠の向こうに佇む黒い影が映し出されていた。
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