【Extra File01】九尾天全、最初の事件
【00】お友だち
二〇〇八年の初夏であった。
どうやら転んだときに頭を打ったらしい。出血もあったので、すぐに近くの病院へと運ばれたのだという。
この連絡を保育園の職員より受けたとき、実業家の田村は仕事中であったが、すぐに病院へと向かった。
可愛い娘にもしもの事があったら……と、病院に着くまで気が気でなかったのだが、その心配は
額の軽い擦り傷。
問診の受け答えもしっかりしており、
……以上が担当した医師による見解だった。
一応しばらくは安静にして様子を見るようにと仰せつかり、病院を後にした。
このとき時刻は十六時。
いつもならば、佳音は幼稚園で十七時まで過ごし、家政婦の
田村は一刻も早く仕事に戻りたかったので、内山に電話を掛けたところ、どうしても外せない用事があるために田村たちの元に着くのは十六時半ぐらいになるのだという。
このまま、娘を連れて幼稚園に戻ってもよかったが、あと三十分ぐらいならば……と、病院近くの市民公園で一緒に内山を待つ事にした。
二人で手を繋いで、ぶらぶらと園内の遊歩道を散策する。
佳音は病院を出てからずっと元気そうで、幼稚園であった事や内山と一緒に見たアニメの話などを早口で捲し立てている。
天気は良好で、邪魔にならない程度の涼やかな風が吹いていて心地がよい。
すれ違うのは、犬の散歩やウォーキング中の老人たち。木製のベンチでは学生のカップルがペットボトル片手に肩を寄せ合い、和やかな雰囲気で談笑していた。
佳音の話は相変わらず止まらない。普段は大人しく引っ込み思案な癖に、まるでマシンガンのように話題を紡ぎ続ける。
少し様子がおかしいようにも感じたが、兎に角、楽しげであったので、田村は適当に相づちを打ちながら、のんびりと歩き続けた。そして、思い起こす。
娘とこうしてのんびりとした時間を過ごすのは、いつぶりの事であっただろうか……と。
そんなときだった。
「……ママ、あれ何?」
佳音が、公園の中央にある噴水の広場で行われていたフリーマーケットに興味を持ち始める。母親の手を強く引っ張る。
田村は苦笑しながら、娘の質問に答えた。
「フリーマーケットっていうの。あれは」
「ふりーまーけっと?」
立ち止まり、きょとんとした顔で首を捻る佳音。田村は説明する。
「フリーマーケットはね、いろんな人が自分のいらないものを持ち寄って、それを他の人に買ってもらうの」
「いらないものを買う人なんているの? いらないものってゴミなんでしょ?」
その娘の疑問に首を振る田村。
「違うわ。自分にとってはいらないものでも、他人にとっては必要な事だってあるのよ」
と、言うと佳音は難しい表情を浮かべてから口を開く。
「あたしはピーマンいらないけど、ピーマンが好きな人もいるって事?」
「そうよ」
娘の独特の理解に頷きつつも、田村は「でも、ピーマンは食べなければ駄目よ」と、釘を刺す事を忘れなかった。
その言葉を耳にした佳音は、まさにピーマンを口にしたときのような顔をして「はーい」と返事をする。
その様子がおかしくて田村は笑った。
それから、ふと携帯の時計を確認すると、十六時二十分になったところであった。そして、内山から『あと十分ほどで到着します』とのメールが入っていた。
時間潰しにはちょうどいい。そう考えた田村はフリーマーケットを見てみないかと娘を誘った。
佳音は、これを満面の笑顔で了承した。
古着、古本、食器類、古めかしい和風の家具、化粧箱……ありとあらゆるものが地面に敷かれた御座の上に並んでいた。
どうやら、近くの大学のサークルが企画したチャリティーイベントであるらしい。
佳音は物珍しいらしく、瞳をきらきらとさせていた。
見慣れない出品物を指差しては、母親に質問を繰り返す。田村は一つ一つ、その質問に答えてゆく。
そうしていると、再び内山からメールが届いた。どうやら、公園の駐車場に辿り着いたらしい。
時刻は既に十六時三十一分であった。
田村は娘に呼び掛ける。
「……ほら、佳音。行くわよ? 内山さんが着いたって」
すると、佳音は……。
「ママ。あれ……」
と、言って、古着や雑貨類が並べられたブースの後方にある大きな熊のぬいぐるみを指差した。
ビニール袋に入っており、五十センチ近くある。値札には『500』とあった。よく見ると左耳にボタンで止められた黄色いタグがついている。
「……あの熊さん、欲しい」
田村はどうするべきか思案する。
もちろん、五百円程度ならば買えない値段ではない。
しかし、中古のぬいぐるみというのが、どうにも抵抗があった。こうしたぬいぐるみがダニの
それに、こうした古い人形には良くないモノが宿るという、昔どこかで耳にした迷信が頭を過る。
よく見れば、茶色い毛は縮れており、くすんでいた。
しかし……。
「……ママ。駄目?」
普段は大人しくて聞き分けのよい娘が、おねだりをするのは珍しい事であった。
仕事で忙しく、娘にはいつも寂しい思いをさせているという負い目が、田村の心の中で鎌首をもたげ始める。
更に売り手の学生が「大丈夫ですよ。ちゃんと、クリーニングはしましたから」と、まるで彼女の心の中を見透かしたような言葉を投げ掛けてきた。
これが決め手だった。
「……じゃあ、そのぬいぐるみ、ください」
その言葉を聞いた佳音は嬉しそうに破顔して跳びはねた。
それから一ヶ月後の夜だった。
田村は帰宅するとリビングで家政婦の内山から、その日起きた事などの報告を受けて、玄関へと送り出す。
このとき時刻は二十二時半となっており、内山によれば娘の佳音は夕飯や入浴などを済ませて、すでに床に就いたのだという。
田村も手早く入浴を済ませて部屋着に着替えると、冷凍のラザニアやインスタントのスープなどで適当に腹を満たし、キッチンから二階にある寝室へと向かう。
これから就寝……という訳にはいかない。片付けなければならない仕事がいくつかあった。
実業家として多忙な日々を送る彼女にとっては、特に代わり映えのしない日常だった。
ともあれ、それは、田村が階段を登って佳音の部屋の前を通り抜けようとしたときだった。
奇妙な声が耳をついた。
田村は佳音の部屋の扉の前で足を停めて、眉をひそめる。
扉板に近付いて耳をそばだてると、ぼそぼそと娘の話し声が聞こえてくるではないか。
なるべく物音を立てないようにしていたつもりだが、起こしてしまったかもしれない。
しかし、
現在、この家には田村と娘の二人しかいない。田村は二年前に夫と離婚しており、郷里の親族とも疎遠になっていた。
佳音の声は独り言にしては長く、楽しげで、感情が籠っているように感じた。人形を使ったおままごとの
いずれにせよ、もう寝付くように言い聞かせなければならない。
田村は娘の部屋の扉を開けた。
「……佳音? 何をやっているの? 早く寝ないと」
そこまで、言いかけて絶句する。
娘の佳音は、熊のぬいぐるみと向き合うような形で部屋の中央に腰をおろしていた。
そして、その幼い口から紡ぎ出されていた言葉は、田村にとって、まったく耳馴染みのないものであった。
日本語でも、英語でもない、どこか異世界の言語のような……。
幼い娘が人形の虚ろな瞳を
その微笑みに歪んだ口元を見た瞬間、田村の背筋に薄ら寒いものが走った。
「佳音……いったい、何をしているの!?」
声を荒げてしまう田村。
佳音が
「お友だちと、おしゃべり」
その声音は、さも当然と言いたげなものであった。
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