【03】出逢いと別れ


 倖田亮一がエリと出逢ったのは六年前の事だった。

 それは首都圏へと出張へ行った帰り道。

 彼は自らハンドルを握る白いプリウスで、宿泊先から最寄りの高速道路を目指していた。

 途中、郊外の国道沿いにあるコンビニに立ち寄り、飲み物や弁当などを買う。

 時刻は日付がちょうど変わった頃だった。

 今から走り通せば、明け方までには充分に赤牟の自宅へと着けるだろう。

 そうすれば、丸一日、家でゆっくりする事ができる。

 倖田は眠気を飛ばし、気合い入れる為にカフェインドリンク、スタミナカルビ弁当、ペットボトルのお茶、ミントガムなどを購入して外に出た。

 駐車場に停めてあった車へと向かい、運転席の扉を開けようとしたところで、車体の影でうずくまっている少女に気がついた。

 それがエリだった。

「助けて……怖い人に追われています……助けて……」

 たどたどしい日本語。

 倖田には、その時のエリは、十歳くらいの異国の少女に見えた。

 そして、彼女の白いワンピースから覗いた二の腕には、無数の痛々しい引っ掻き傷が刻まれている事に気がつく。

「私をいじめるの。怖い大人が私の事を虐めるの……助けてください」

 警察に電話する気には、最初からなれなかった。

 一般常識に照らし合わせるならば、そうするべきであっただろう。

 しかし、この時の倖田の脳裏には、そんな考えはいっさい思い浮かばなかった。

 見つめられるだけで吸い込まれそうになるあおい瞳……不気味なほど整った顔立ち……華奢きゃしゃ肢体したい……そのいたるところに刻まれた傷のすべてが、庇護欲ひごよくをそそる物だった。

 倖田は一目でエリに魅せられてしまったのだ。

 少し逡巡した後、倖田は彼女を抱きあげて、自分の車の後部座席に乗せた。

 それは単に欲しかった物をカートに乗せるような……そんなごく当たり前の感覚だった。

 未成年者略取誘拐。

 そんなつもりなど毛頭になかったし、罪悪感すら感じなかった。

 エリは後部座席のシートにもたれるなり、まるで糸の切れた操り人形のようにがくりとうなだれ、大人しくなった。

 倖田は何食わぬ顔で、そのまま車を発進させた。コンビニの駐車場を出る。

 そうして、しばらくすると前方に見えてきた高速道路の入り口で車が列を作っていた。

 警察の検問だった。

 そこで倖田は、ルームミラー越しに後部座席のエリに目線をやりながら、舌打ちをする。

 そういえば、この近辺にある骨董屋に強盗が入ったというニュースをカーラジオで聞いた事をぼんやりと思い出す。

 店主は携帯の充電コードで首を絞められて殺され、犯人は未だに逃亡中なのだという。

 自分の番が近づいてくる。

 どこか回り道を探すべきか……倖田の心に焦りと苛立ちが広がる。

 もう一度、ルームミラー越しに後部座席で、動かないエリの事を見た。

 その瞳は閉じられており、ぴくりとも動かない。


 ……何て事はない。エリが寝ているうちに平然とした顔でやり過ごせば、どうという事はない。


 倖田は腹をくくり、検問を受ける。

 そして、とうとう自分の番がやってきた。

 二人の警官がやってくる。

 免許証を見せて質問に受け答える。指示通り、トランクの鍵を開けた。

 すると警官の片方が後部座席のエリに目線を向ける。

「その後部座席の……」

 ……と、警官が言いかけた、その時だった。

「パパ。どうしたの? 何かあったの?」

 エリの眠たげな声が聞こえた。

 倖田は腰を捻り、後部座席を見ながら……。

「ああ。警察の検問だよ。近くで強盗事件があったんだって。怖いね」

 話を合わせた。

「パパ。私、寝てていい?」

「うん。大丈夫だよ」

 そこで警官が申し訳なさそうに言った。

「娘さんでしたか。失礼しました」

「いえいえ……」

 こうして、倖田は無事に検問を突破して帰路に着いた。




 エリを家に連れて帰った当初、倖田の妻である万里江は当然ながら戸惑いを見せたが、すぐにエリを受け入れた。

 万里江は元々、身体が弱く妊娠しにくかった。

 ずっと子供を授かれず、淋しい思いをしていた事もあったのだろう。

 こうして、倖田亮一と万里江、そして謎多きエリの、まるでままごとのような・・・・・・・・家族ごっこが始まった。

 万里江も、始めのうちはエリを我が子のように可愛がっていた。

 しかし、徐々にエリの事をうとみ始め、異常な行動に出るようになった。

 エリに暴力を振るい、クローゼットに閉じ込めたり、椅子に縛りつけたりするようになった。

 真冬のある日など、エリを水の張った浴槽に裸のまま沈めて押さえつけていた。

 これは倖田が必死になって止めて、このときは大喧嘩になった。

 当然ながら警察に頼る訳にはいかなかった。妻の事を誰かに相談する訳にも……。

 そんな事をすれば、倖田は誘拐犯として罪にとわれてしまうだろうし、何よりエリと離ればなれになってしまう。

 その事が倖田には耐えられなかった。

 万里江はエリの事を化け物だと罵り、倖田とのいかがわしい関係を疑った。

 完全に言いがかりであり、倖田にとって妻の言い分はおぞましい妄想に過ぎなかった。

 エリはもう自分たちの娘だ。

 エリの事は自分たちが育ててやらなくてはいけないのだ……いくら言い聞かせても、万里江は倖田の言い分を聞き入れようとしない。

 エリへの暴力は時を追うごとにエスカレートしていった――


 どうするべきなのか倖田は悩み、その答えに彼が辿り着かないうちにあの惨劇が起こった。

 結局、倖田は万里江の罪を許し、忘れる事にした。

 しかし、それでも二人の関係は、もう昔に戻る事はできなかった。

 倖田は万里江と離婚する事となる。

 あの赤牟の家は、元々は妻の親族の物で、倖田は県庁所在地へ移り住む事となった。

 妻の万里江も家を出て、赤牟市の中央町で暮らし始めた。

 こうして、あの家に住む者は誰もいなくなった。

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