【09】それ以降


 二〇〇七年の十一月一日だった。

 二十一歳になった橋村菫の元へと、久し振りに久我山紗理奈から電話があった。

 彼女とこうして言葉を交わすのは、随分と久し振りの事だった。

 橋村は高校を出てから都内の短大に進学し、そのまま就職した。

 更に二〇〇四年の中越震災の影響で元々老朽化していた実家が倒壊したため、親族は父方の実家がある岐阜へ移り住み、高校卒業まで過ごした藤見市へと帰る必要もなくなった。

 以来ずっと、高校の友人たちとの付き合いは薄くなっていた。

「久し振りね」

 気安い調子でそう言った橋村の声には酒気が混じっていた。

 時刻は午前二時半。

 大学の友人たちとのハロウィンパーティ。お洒落で安い洋風居酒屋の後はカラオケで二次会。

 そうして先程、最近よい感じの男子と駅で別れて、下宿先のアパートへと帰ってきたところで電話が鳴った。

 受話口を耳に当てたまま、ベッドの縁に腰をおろす。ローテーブルの上のリモコンを手に取りテレビをつける。

 そこで聞こえてきた久我山の声は尋常な調子ではなかった。

「……スミレェ……助けてェ……どうしようぉお……」

 まるで極寒の中にでもいるかのようにその声は震えていた。

 苦笑いをしながら聞き返す橋村。

「ちょっと、どうしたのよ……?」

「……私ぃ……夢をぉ……夢をぉ……視るのぉ」

「本当に何なの? 酔っぱらってるの?」

「い……いいどのぉ……夢をぅ……視るの」

「は?」

 若干、苛立ちの感情を混ぜて聞き返す。

 すると……。


「井戸の夢を視るっつってんのよッ!!」


「はあ……?」

 最初は何の話かピンと来なかった。

 受話口の向こうから聞こえる久我山の啜り泣く声。

 それを聞くうちに徐々に記憶が甦る。

 井戸……生家にあった土蔵……そして……。

「白川貴理絵」

 何年か振りにその名前を思い出す――。

 あの文化祭の前日くらいからだった。白川貴理絵は学校にこなくなった。

 結局、彼女の登校拒否の原因は、家庭の事情という事で周囲は納得した。

 彼女の父は外で作った女の所に入り浸り、母は新興宗教にはまって家に帰ってこない……二人ともろくでなしである事は有名だったからだ。

 少なくとも表だって橋村たちの責任であると言う者はいなかった。

「ししし白川の言っていた事は……本当だ……本当だったぁ……あの井戸は、呪われてぃるぅ……」

「はあ……? ハロウィンジョーク? お菓子くれないから悪戯しちゃってる訳?」

「違う! 冗談じゃない! 寿子もきっと呪われて死んだッ!!」

 遠野寿子は二〇〇六年のちょうど今頃、県庁所在地の駅で飛び込み自殺をした。

 その年の一月いちがつにあった成人式の時は、特に悩み事もなく元気そうだったので、まさに青天の霹靂へきれきであった。

 そういえば、久我山とこうして言葉を交わすのが、遠野寿子の葬式以来であった事を思い出す。

「あの井戸の呪いだよぉ……寿子も私も呪われたんだぁ……」

「ちょっと、いい加減にしてよ!」

 いい加減にうんざりしていた橋村は強めの語気で言った。

 すると久我山は「ひひっ……」と不気味に笑い、墓場をさ迷う幽鬼のような声でささやく。


「お前も呪われている」


 通話が切られた。

 唖然とする橋村。テレビ画面の中では、最近売り出し中の芸人がマイクを挟んでくだらない掛け合いをしていた。

「いったい、何だったの……」

 独りぼっちの部屋で、寒々と呟く。

 この二日後だった。

 久我山紗理奈が車で国道を逆走し、ダンプと正面衝突をしたのは……。




 二〇〇八年十一月三日の昼過ぎだった。

「ああ……ああああ……ああ……」

 橋村菫は自室の床の上で膝を抱えてうめき声をあげていた。

 もう四日は寝ていない。彼女の周囲にはカフェインドリンクの空き缶や空き瓶が転がっていた。

 正面のテレビからは、ハリウッドの肉体派俳優が機関銃をぶっぱなす映画が大音響で流されている。

 ステレオからは重低音のリズムとメロディ、悪魔の吠え声に似たガテラルボイスが響き渡っていた。

 橋村は眠る事に怯えていた。すべては眠らない為だった。眠ればまたあの夢を見てしまう。あの井戸の夢を……。

 井戸の底からあの女が這い出してくる。現実には存在しないはずのあの女が……。

 あれは全部、作り話だったはずだ。

 しかし、橋村はもう本能で理解していた。

 およそ一年前に久我山の言っていた事は本当だったのだと……。

 このままでは、遠野と久我山のように呪われる。

 白川の言っていた井戸の底に潜む“よくないモノ”に取り殺される。

 その恐怖は橋村の精神を追い詰めて蝕んでいた。

「ああああぁ……あ……あ……あ」

 意識が落ちそうになると、頭の両側を両手で挟み込みシェイクする。その仕草はあまりにも気狂いじみていた。

 おもむろに玄関のインターフォンが鳴った。

 びくん、と身体を震わせる。

 唇を戦慄わななかせて、玄関へ延びた廊下へと続く部屋の扉の方へ目線をやると、再びインターフォンが鳴り響く。

 続けてガンガンと玄関の扉が打ち鳴らされる。

「ちょっと! 橋村さん音! 五月蝿いよ!」

 隣の部屋に住む女だった。

「橋村さん! いるんでしょ!?」

 その言葉が終わった瞬間だった。

 音楽がピタリと止み、テレビ画面がぷつりと暗くなった。

「あっ、あっ、あ……あ……」

 過呼吸気味になる橋村。

 そして彼女は気がつく。真っ暗なテレビ画面に映った自分のすぐ後ろに立つ、白いワンピースを着た見知らぬ誰かの存在に。


「ひぃ……」 


 橋村の表情がこれまで以上に大きく歪んだ。

 彼女は盛大な絶叫した。


 このあと、悲鳴を聞きつけた近隣住民の通報により駆けつけた警察官が、変わり果てた橋村菫の遺体を発見した。

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