【12】鬼畜


 小茂田富子の夫である源之助は、いわゆる農地成金だった。

 更に富子の妹の旦那は元県警のお偉方で、さる企業の代表取締役である。

 この企業は県下でも有名な不動産賃貸、飲食店、医療介護施設の運営を営んでおり、トップ経営陣の殆どが富子の一族と縁故のある者だった。

 富子自身も妹共々この会社の役員という立場にいた。そのお陰で、それなりの額の役員報酬を毎月懐に納めている。

 会社の方は医療介護の分野が好調で、不景気の昨今においてもそれなりに金回りがよかった。

 この日も富子は朝から“特別役員会”という名前の親族同士のお茶会に出席する為に家を出た。

 足腰の為に徒歩と公共交通機関での移動を心がけていると吹聴ふいちょうする彼女であったが、単にタクシーなどを使うほどに経済的な余裕がないだけだった。

 それもこれも源造の浪費のせいである。

 そんな訳で、富子はいつも通り集落の北の外れにあるバス停を目指す。

 バス停の位置は集落から少し離れていた。

 田んぼに挟まれた道の途中に路肩へと張り出したスペースがあり、標識や簡素なプレハブの待合い小屋があった。

 そこへ富子がもう少しで辿り着こうという時だった。 

 楝蛇塚のある方角から、鴉のような、春先の猫のような、赤子の泣き声が聞こえてきた。

 富子は、またか……と、顔をしかめる。

 あの日からずっとそうだ。

 田んぼの方から、ときおり、何かの声や気配、視線を感じる事が度々あった。


 ……楝蛇塚の方を見てはいけない。


 蛇沼の生まれではない富子は、そんな迷信は信じていなかった。

 しかし、あの日を境に富子は楝蛇塚の方を一度も見ていない。

 彼女を埋めたあの日の夜からずっと――




 きっかけは覚えていない。

 恐らくほんの些細ささいなやり取りだったはずだ。

 その時の目付きが悪かった……。

 その時の口調が気にくわなかった……。

 そんな、どうでもよい理由で小茂田源造は最後の一線を越えてしまった。

「おい……」

 居間の入り口前の薄暗い廊下の床に小茂田愛弓が仰向けに倒れている。

「おい……愛弓」

 壊れた操り人形のように身を投げ出して、くすんだ硝子玉のような瞳で天井を見つめながら倒れていた。

 キッチンで喧嘩になり――とは言っても源三が一方的に怒鳴り声をあげて殴りかかっただけなのだが。

 ともあれこの日に限っていつもは大人しい愛弓が腕を振り回し、大声で叫びだした。抵抗されるだなんて露ほども思っていなかった源造は一瞬ひるんでしまう。

 その隙に愛弓はキッチンから玄関や居間の方へ続く廊下へと飛び出した。

 しかし、居間の入り口の扉に手をかけた寸前で源造に捕まる。廊下に引き倒されて殴られ続けた。

 数分に渡り、凄惨な暴行が繰り返された。そして……。

「おい……愛弓、ふざけてんのか!?」

 源造はまったく動かなくなった愛弓の胸ぐらを両手で掴んで持ちあげる。ガタガタと揺った。

 瞬きひとつしない。赤黒く腫れた目蓋の奥にある瞳は虚ろで生気に欠けていた。鼻はひしゃげ半開きの口から覗く前歯は折れていた。

「おい!! 愛弓テメェッ、いい加減にしやがれッ!!」

 しかし、彼女の頭部は力なく揺れるだけだった。死んでいる。そうとしか思えなかった。

「ヒィッ!!」 

 源造は慌てて手を放す。がつん……と、鈍い音が鳴り愛弓の後頭部が床に落下した。

 おびえた顔で後退りして、呆然としたまま佇む。

「クソッ、クソッ……」


 ――源造が初めて愛弓に手をあげたのは、結婚してすぐの事だ。

 彼女が源造に、そろそろ生活費がなくなってきたから何とかしてほしいと申し出た事が切っかけだった。

 この頃の源造と愛弓は、蛇沼の実家ではなく県庁所在地でアパートを借りて二人で暮らしていた。

 生活費は愛弓の少ない貯金と、彼女の元カレより源造が奪い取った慰謝料だけだった。

 愛弓も妊娠が発覚してから店を辞めて源造は無職で収入がない。

 愛弓としては、裕福な源造の実家に頼って何とかして欲しいというニュアンスだったのだが、彼は無職の自分が責められていると勘違いし激昂げきこうする。

 結果、愛弓の子供は陽の目を見る事なく天へと還った。

 それ以来だった。愛弓が源造に対して異常に脅えるようになったのは……。

 至極当然の事なのだが、源造にはそれが気にくわなかった。

 せっかく、クズ男から救ってやったのに、恩人に向かってどういうつもりなのかと……。

 自分がそのクズと同じ事をしているという自覚はまったくなかった。

 最早、夫婦関係は破綻していたが、離婚するのはまっぴら御免だった。

 せっかく、まともになろうとしたのに……結婚に難色を示していた母親へと生まれて初めて頭をさげたのに……。

 ちっぽけなプライドを守る為に彼は、愛弓の恐怖心を利用して彼女を縛りつけた。

 源造は愚かだったが、そういう手管は得意だった。

 それから数年、形だけは平温だった。

 実家に帰った事で生活は安定し、たまに怒鳴り声をあげる事はあったが、それでも何とか手をあげる事は我慢できていた。

 知り合いの飲み屋の店員から、愛弓が雑居ビルの地下から見知らぬ男と出てくるところを見たと聞くまでは――


「クソッ……クソッ……」

 何度も人を殴った事のある彼だったが、人を殺すのはこれが初めてだった。

 明らかに生者の感触ではない忌避感きひかんと嫌悪感。それは両手に絡みつき、重くまとわりついていた。

 そこへ玄関の方から、

「源造……」

 と、呼ぶ者がいた。

 源造が顔をあげると、母親の富子が駆け寄ってくる。慌てて愛弓の脈を取った。

 それで富子は、もう愛弓が生きていないであろう事を悟ったようだ。

「お前……何て事を……」

 源造は咄嗟とっさに老いた母親へとすがりつく。

「なあ……お願いだよ、助けてよ、母さん……」

「源造……源造……お前は、本当に何て子だよ……」

「お願いだよ! また叔父さんに頼んでくれよ……お願いだよ……」

 源造は涙ながらに富子へと懇願こんがんする。それは人生で二度目の事だった。




 そこは小茂田家の居間だった。

 レースのカーテンにテーブルクロス、猫足のソファーに花柄の壁紙。

 そして家具の上や飾り棚に並ぶテディベアたち……。

 部屋の中央にあるローテーブルを挟んで源造と富子が向かいあっている。

 源造が震える指先で煙草を摘まみ、ライターで火をともした。ゆっくりと深呼吸でもするように煙をくゆらせる。

 源造の口から吐き出された白煙が室内に拡散する。

 因みに、この部屋の少女趣味は富子の嗜好しこうだった。

 夫が死んだのを境に、一気に自分好みに模様替えした。

 しかし源造が実家で帰ってきてから、この居間で喫煙するようになった。結果、彼女のお気に入りの空間はすっかりとやにまみれになって汚れてしまった。

 この部屋での喫煙を何度もやめるように注意したが源造は聞き入れず、富子もすでに諦めていた。

 煙草が半分ほどなくなりかけたところで源造の指先の震えが徐々に収まり始めた。

 それを見計らって富子は話を切り出した。

「……落ち着いたかい?」

「ああ……ああ……」

 源造は煙草を灰皿に押しつけた。

 富子は窓の方を見た。カーテンの隙間からは、まだ陽の光が射し込んでいる。

「暗くなったら、キッチンに転がってる、あの女を埋めに行くよ」

「ちょっ……何で、そんな事を……叔父さんに頼んでなかった事にしてもらってくれよ……」

 泣きそうな顔をする源造。いつもの尊大な態度とはまったく別人のようだった。

 富子は溜め息を吐いて頭を振る。

「……無理に決まっているだろう。あんた人を殺したんだよ?」

 源造は絶望に表情を曇らせる。

「……あれは、愛弓が勝手に死んだだけだ。俺は悪くねぇよ」

「そんなくだらない屁理屈、誰が信じるものかい。世の中、甘くみるんじゃあないよ!」

「うっう……俺は愛弓をぶん殴っただけだ。愛弓が勝手に死んだだけだ……俺は殺していない」

 富子は心底呆れて溜め息を吐いた。

 本当は妹に頼めば、何とかなったかもしれない。少なくとも妹は身内の恥・・・・隠蔽いんぺいする為に、警察にコネのある自分の旦那を必死に動かそうとしてくれるだろう。

 しかし、もう妹にいい顔をされるのは我慢ならなかった。これ以上、源造のせいで恥を晒すのは御免だった。

 妹の息子は都内の大学に進学し、今は地元の有名企業で働いている。

 かたや源造は若い頃から録でもない悪事を重ねて、今や穀潰ごくつぶしの人殺しだ。

 自分は妹とは違い、源造という失敗作・・・を産み出した一族の恥さらし。

 何よりも自分が母親として妹に劣っているという事実が、どうにも我慢ならなかった。

 富子は妹のさげすんだ目付きを思い出す。

 源造の事で富子を馬鹿にして下に見ているのだ。

 そんな相手に頭をさげるのは、もう無理だった。

「……いいかい? 七年我慢すれば失踪宣告がおりる。そうすれば、あの女の保険金が入ってくる。かなりのまとまった金になるよ。受け取るのはあんたさ」

 富子の言葉を聞いた源造の瞳が輝き出す。

「保険金……愛弓の……」

「それまでは、家に置いてやるから、大人しくしてるんだよ?」

 源造は情けない顔でコクコクと頷く。

 小心者で常に他力本願。だから強がり、よく吠えて、よく噛みつく……それが誰もが恐れる小茂田源造の本性だった。

 その事を母親である富子は、よく知っていた。

 本当にこいつは失敗作だ……富子は源造の顔を見る度に思っていた。その顔が若い頃の旦那に似ているのが、また腹立たしかった。

 それでも、彼の事を他人に馬鹿にされるのだけは我慢ならない。

 しかし、その思いは、とうてい母親の愛などとは言えない邪悪なものでしかなかった。

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