【08】後日譚
九月に入って最初の日曜日の昼過ぎだった。
「あ、本当だ。姿見が壊されてる」
桜井が壊れた姿見を眺める。
この日、桜井と茅野は丑骨小学校を訪れていた。
もちろん、純然たる部活動である。
「……それにしてもさあ、森田さんは優しいね。あたしならはっきり嫌いだって言うけど。こんな風に」
桜井は割れた姿見に向かってワンツーをリズムよく繰り出す。
「貴女、それ絶対にはっきり嫌いっていうだけじゃ済まない感じよね?」
「それは相手の出方次第だけど」
桜井は偉そうに胸を張る。
「でも……」
と、茅野は床に散らばる鏡片に映る自分の顔を覗き込みながら言葉を続ける。
「森田さんは、はっきりではないにしろ、倉本さんに大嫌いだと自分の気持ちを伝えているわ」
「ふうん。どこで、そう思ったの?」
「あの
「ああ」
「花言葉は覚えてる?」
「ええっと、“信頼”と“尊敬”と、“君がいて幸い”だっけ?」
「相変わらず、勉強以外の事となると抜群の記憶力ね」
「それは、どうも……で、あの花言葉がどうしたの?」
きょとんと首を傾げる桜井。
茅野は皮肉めいた笑みを浮かべながら、彼女の言葉に答える。
「
「きけい?」
「人を騙してる
「ふうん」
いつも通りの理解しているのかしていないのか解らない調子の返事。
茅野はクスリと笑って言葉を続ける。
「それで“君がいて幸い”の花言葉なんだけど、あれは赤い
「花言葉って、色によって違うんだね」
「そうね」と頷く茅野。
「じゃあ、白い
「“あなたの愛を信じない”よ」
「あー……倉本さんは思いっきりフラれてたんだね」
「そうね。恐らく、せめてもの
そう言って茅野は三階の音楽室に歩き始める。桜井も後に続いた。
そこには血を流すモーツァルトの肖像画があるらしい。
「……でもさ、循」
「何かしら?」
「もしも、この先だよ。彼女が偶然にも真実を知ったとしたら、どう思うかな? 自分が嫌われていて、自分が間違っていたって、ちゃんと理解できるかな?」
茅野は沈痛な面持ちで首を横に振る。
「前にも言ったけど、あの手の人間は、自分の都合のよい事を真実だと選んでしまう物なの。己を省みずにね」
「うん」
「だから、無駄でしょうね。きっと自分が
「そっかー」
と、難しい顔をする桜井。茅野は気分を変えようと話題の転換をはかる。
「それはそうと、今回、私たちはまったく何もしていない訳だけれど……」
「そういや、そうだねえ」
桜井が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「梨沙さんは、あの倉本さんからもらった一万円、どうしたらいいと思う?」
「返さなくていいんじゃない?」
桜井は即答する。
「そうね。第一、もう彼女とは関わり合いになりたくないもの……」
茅野も同意して頷いた。
ちょうど、その日、倉本百子は朝から予約していた美容室で髪を切った。
それが済むと藤見駅から電車に乗って県庁所在地へと向かった。
その駅構内の珈琲ショップでジャン・コクトーの詩集を読みながら甘いキャラメルマキアートを飲んでいると、彼女の座る席にゴスロリ姿の女子がやってくる。
眼帯を右眼にかけて包帯を両手首に巻いている。
彼女の私服姿を初めて見た倉本は一瞬だけぎょっとするも、すぐに笑顔を浮かべて挨拶を交わす。
彼女の名前は
よく図書室で頻繁に顔を合わせる後輩というのは彼女の事だ。人付き合いの苦手な倉本が親交を持つ、数少ない人間の一人である。
今日この場所にいるのは、犬吠に映画を観ようと誘われたからだった。
「うわあ……先輩、髪の毛切ったんですね……短い髪も素敵です」
犬吠はトレイに乗ったソイラテをテーブルの上に置いて、倉本の向かいに座る。
倉本はジャン・コクトーの詩集に、あの白い
すると、犬吠はニコニコと笑いながら倉本に問う。
「どうしてですか?」
「え?」
その唐突な質問に倉本は首を傾げる。
犬吠は笑顔のまま再び問う。
「どうして髪を切ったんですか先輩?」
きょとんとしながら倉本は質問に答える。
「いや。だから、気分転換に……」
あの森田優花の一件で心境の変化があった彼女は、思いきって髪を切ってみる事にしたのだ。
大好きだったあの人の為に前を向いて生きる……その未来への決意表明の証だった。
大いなる勘違いが元ではあったが倉本の心は確実によい方へと向いていた。
しかし、そんな彼女の心根とは対照的に犬吠の表情はどこか
「気分転換って、どうしてですか?」
「いや、その……ちょっと、色々とあって……」
「やっぱり、男ですか?」
その声は倉本がこれまで犬吠の口から聞いた事がないくらいの、低く暗く重い声だった。
「犬吠さん……?」
困惑しながら彼女の顔を恐る恐る覗き込むと犬吠は眼球を激しく動かしながら下唇を噛み、ぶつぶつと何事かを呟いていた。
「先輩に男……男……汚らわしい……先輩に近づく毒虫は全部、さ殺虫……殺虫しなければ……け汚らわしい……汚らわしい……汚けがケガけが……」
「犬吠さん……?」
倉本は息をのみ、もう一度、彼女の名前を呼んだ。
犬吠は、はっとした顔で我に返る。
「あ……ごめんなさい。先輩……私……」
ほっとする倉本。
そして犬吠はソイラテを一口飲んでからニコニコと笑いながら言った。
「それで、桜井梨沙と茅野循には近づかない方がいいって忠告したのに、何で私の言う事を聞いてくれなかったんですか?」
倉本は絶句する。
確かに桜井と茅野について、犬吠との会話で話題になった事はある。そのとき、彼女の口から二人についての
しかし、桜井と茅野に会いに行った事を彼女に話しただろうか。
記憶にはない。
ならば、同じ図書委員で桜井と茅野の事を教えてくれた浅田柚葉が、その事を彼女に喋ったのだろうか。浅田にはオカルト研究会の部室へ行ったのを話した事を覚えている。
だが、浅田と犬吠は仲が悪い。犬吠が浅田の事を一方的に嫌っているせいなのだが……。
兎も角、浅田から犬吠に、そういった情報が伝わるとは考えづらい。
ではなぜ、彼女は自分が桜井と茅野に何かの相談をした事を知っているのか……。
困惑する倉本をよそに、犬吠はうっすらと微笑む。
「相談なら、私にしてください。私だけを頼ってくださいよ。先輩」
「あなた……いったい……何を言って……」
倉本の腹の底から、言いようのない嫌悪感が込みあげる。
犬吠はニコニコと笑ったまま、その鎖のような言葉を口から放つ。
「先輩には私だけでよいんです」
そのときの犬吠の顔は、よく知っている
倉本は心の底から気持ち悪いと思った。
(了)
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