第8話


 6月30日、水曜日(4回目)。


 俺は高崎さんが来るのを待たずに、階段を駆け上がっていた。


「急に走り出してどうしたの?」

「……」


 前橋さんの言葉に耳を傾けることなく走り続ける。

 気が付けば3階にある3年の教室に来ていた。


 中は誰もいない。それでいい。

 今はただ一人になりたいんだ。


「ねぇ、大丈夫……?」


 前橋さんはなんだかんだ優しい。

 でもその優しさが今は胸を抉る。


 何も知らないはずの前橋さんに向かって、弱さを全部ぶちまけたいと思ってしまう。

 だから言葉が止まらなくなる


「……何回……踏みにじればいいんだ……」

「えっ?」

「何回巻き戻しても、彼女は自分の思いをぶつけてくれた。好きって言ってくれたんだ!」


 前橋さんは何がなんだか分からないだろう。言葉を出す気配がない。


「嬉しかった。とてもとても嬉しかったんだ。女の子から告白されたことがなかった俺が、女の子とろくに話しができなかったこんな俺が、あんな素敵な女の子に告白されたんだ。嬉しくないはずないだろ!」


 窓を閉め切っているためか、目から汗が止まらない。


「でも、告白してくれた途端、それが巻き戻ってなかったことになる。彼女の抱いてくれた気持ちを、伝えてくれたその気持ちを、台無しにしてしまったんだ。でも、ほっとしている自分もいた。気持ちを伝えられたとしても、自分の中の答えは出せていなかったから。可愛いな、素敵だなって思ったとしても、それは特別な感情じゃない。今まで現実の女の子に恋なんてしたことがなかったから、その気持ちが好きかどうかなんて分からない。それでも、気持ちを伝えてもらったからには、どんな結果になろうとも、そのとき抱いた感情を伝えるべきなんだ。それすらできなかった……」


 情けないよな……

 何も分からない人からしたら、ただの妄想内で病んでいる変な奴だ。

 さぞかし前橋さんも哀れに思う表情を—————



 えっ?



 前橋さんの表情を確認すると、そこには哀れみや軽蔑の意は一切ない。

 今にも泣き出しそうなくらい……



 浮かない顔をしていた。



 この表情、前にも見た気が……


 ふと前回の巻き戻しでの前橋さんの横顔がフラッシュバックする。

 同時に、初めて高崎家に行ったとき、ちょっと怒ったように部屋を出ていく姿。

 ギュッと握られた拳。

 一番最初に《巻き戻し》が起こったときの唖然とした表情、だんだん浮かない顔になっていく女の子。普段は無表情のくせに、どこか感情が分かってしまう可愛くて綺麗な女の子。



—————そっか。そういうことだったのか。



 ここは3階。

 そして窓の外にはグラウンドが広がっている。


「前橋さん、俺、分かったよ」

「え?」


 前橋さんの反応を無視して窓を開け、そのままベランダに移動する。

 日付上は、今日は6月30日。

 もうすぐ本格的な夏が来る。

 日も傾き始めているが、正直2週間後と変わらないくらい蒸し暑い。

 でも、時折吹く風は優しく包み込んでくれる。


 ここにいる女の子もそうだ。

 彼女の場合は、蒸し暑いというよりは、ひんやり冷たいけど。


 グラウンドには人がほとんど残っていない。

 もうすぐ試験ということもあり、部活を終えた後はすぐに帰宅する生徒が多いのだろう。

 少し横に移動する。ここなら大丈夫だ。


 手すりに背中を預け、前橋さんの方を向く。前橋さんと目が合った。

 やっぱり前橋さんの目は、ぱっちりしていて吸い込まれそうなくらい綺麗だ。


「ねぇ、何が分かったの?」

「うん、前橋さんはなんだかんだ優しいってことだよ」


 俺は微笑んで、手すりに乗っかる。


 そして、



————そのまま飛び降りた。



 落下しながら前橋さんも一緒に落ちていく。

 そうだよな、前橋さんと俺は離れられないもんな。

 もう無表情ではなく、必死な形相でこちらに手を伸ばす前橋さん。

 何かを叫んでいるようだ。

 風の音で遮られているが、口の動きではっきりと分かる。



————ダメ



 その言葉と同時に世界が止まる……


 意識が遠のき、暗闇に包まれていく……


 ………………………………


 ………………


 ……


 …

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